2013年3月3日日曜日

Tirez sur le pianiste

 「責任」という言葉を世間もそうだが、自分自身も易々と使う。その使い方や場合によっては「責任」という言葉が「責任回避」や何かをうやむやにしてしまう行為といして使われ、使ってしまっているような不安を感じる。「責任」を取るという事は行動になるのだが、そう簡単に「責任」ある行動を取る事ができないからこそ、「責任」という言葉が頻繁に使われ、議論の対象になっているのだと思う。事後的に出現する「責任」に対して、人は「責任」を他者と共有してその言葉から、意味を救いだす事はできるのだろうか。その「責任」ある行為を抜きにしては、「責任」ある行動などは不可能な事だ。そこには思想や政治といったモノが梃子になって人を「責任」ある行動へと導くのだと信じるのだが。それは「無責任」な事なのだろうか。その「無責任」すら受け入れ生きる事は何だか凄く不安で不安定だ。

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