2012年11月19日月曜日

再起動

 人生で「一人で良いから」心の底から通じ合える人に出会う事は、その人生をかけても良いくらいの意味を持っていると思う。つまり、自分の人生と等価なモノ。その一人は、両親でも友人でも恩師でも勿論、恋人でも良いわけで。そして、「一人で良いから」というのは決して、消極的、ネガティブな意味ではなく、人間の存在を最大限に肯定した姿勢の自分なりの表れだと思う。その一人にさえ出会えていれば、世の中の大きな流れみたいなものに対峙した時にも正気を保っていられるし。なんとか立ち、進んで行けるんだと思う。時々、その人を思い出すことがある。その人が大げさに言っていた「同志」なんて言葉を思い出す。自分の人生は本当にろくでもない人生だから、過去を振り返ったり思い出す事は嫌だし、苦手なんだけど。唯一、その人の事は思い出すし、その人の為に自分の過去があると言っても大げさではない。そして、その過去が今の自分、将来とのバランスをとってくれている様な気がする。
その人と自分の関係はどの様なモノだったのだろうか。
相手は自分の事をどの様に思っているだろうか。
その人は今、何をしているのだろうか。
その様な問は本当に些細な問題にすぎないし、時間、内容やその意味。それらを超越した出会いが私達の間には確実にあったのだ。そして、同時に今、此処には存在しない事実でもある。それは本当になんとも言えない。決して悪いことでもないし、少なくとも何か自分が今までの人生で学び超越論的な何かしらを捕まえたとすれば、この行為を経なくては無かっただろうと思う。
Фёдор Миха́йлович Достое́вскийの『カラマーゾフの兄弟』の中にこのような人間の関係性、出会いを語った部分があった様な記憶がある。この曖昧な記憶をたどる意味でも再読しようと思う。
自分の文章の曖昧さは記憶の曖昧さでも書いている事柄の曖昧さでも無いことはとても悲しいことだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿

登録 コメントの投稿 [Atom]

<< ホーム