Japan,the ambiguous,and myself
ある小説家が「もともと「小説」というのはめんどくさい事を書いてきたが、最近はめんどくさい事を「小説」が書かなくならなくなった様な気がする。」と言っていた。確かにたしかに、「小説」がめんどくさいモノかどうかまでは解からないが。自分は結構めんどくさい奴であり。めんどくさい事が好きなので、演繹的に「小説」もめんどくさいモノなのだろう。その「小説」がめんどくさい事を書かなくなった事は別に良い事でも悪い事でもなくて。画一的なモノの観かた、一方向的な物事の進み、発展、展開みたいなパースペクティブを拒むところが「小説」にはもともと在ったんじゃないだろうか。それとも、扱う素材自体のめんどくささの事なのだろうか。「私小説」的なめんどくささは今も昔もあふれているが、それは意外とめんどくさい事ではないのかもしれない。そしたら、元々めんどくさい事を書いていた「小説」なんてごく一部でその量は今も昔も同じくらいだろう。世の中と「小説」の関係からめんどくさい感みたいなモノの感覚というものは変わる気もする。世の中からありとあらゆるめんどくさいモノが無くなったらいったいどうなるのだろう。
少なくとも、蟹を食べることはめんどくさいけど蟹は美味いし。
レコードをセットして針をおくこともめんどくさいけど良い味の音がする。
つまり、そんな単純なめんどくさい事を言いたいのではないという事。
もはや、今の世の中から「小説」や「芸術」がなくなったら、いっさいめんどくさいモノが無い世界だったりするんじゃないだろうか。今日に限らず、此処のブログは結構めんどくさい事が書かれる事が多いのだが。
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