奪人称
今朝は路上もんじゃを二つも発見した。年末に向かうにつれて増えていくんだろうな。皆さんもお体ご自愛ください。
自分の内面に対峙しても、一番の敵である己の不安を安易に外側へ投影し、プロレスに勤しむ日々。内面性の欺瞞を暴くことが物事の停滞や閉塞を突破する唯一の扉である。押しても駄目なら引いてみなそれで駄目なら壊してしまえ。
ある方がニューヨークで柄谷行人氏に「もう、「文芸評論」はしないんですか?」と聴くと。「自分のやっている事の方がよっぽど「文学」じゃないか」と答えたそうな。自分はこの話を聴いて、震えました。濡れました、鼻の頭が。「文学」や作品を自分の眼の前から退けたとしても、そこに残る何モノかが在る。いつの間にか「文学」から感染した、その視点、思考そして、脱臼、その脱線の作法が。物事に新しい可能性と視差を与えるのではないだろうか。本当に柄谷氏は安易に特定の場所に安泰してしまう「安心な僕ら」に、常に厳しくそれ以上に心強い新たな視差を与えてくれ、思索の世界へ。そして、その外へ外への「遠心力」を自分に与えてくれる。
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