2012年12月31日月曜日

ハローもグッバイもサンキューも言わなくなって

 「あいさつ」の大切さを説かれたところで、子供には高度すぎて解からない事だと思う。おそらく、反抗して「あいさつ」などしないというのが自然で当然の反応だし、正しい行為だ。小津安二郎監督の『お早よう』という作品があるが、この作品も「あいさつ」を巡る物語で、登場人物の子供が親に反抗して「大人たちこそ、無駄なことを言っている。お早う、こんにちは。いい天気ですね。」なんて事を言い。「少しは黙っていろ」と笠智衆が演じる父親に怒られ、どんな事を聞かれても何も答えないという態度ににでるのだが。それが、様々な事件を巻き起こす内容だが。その子供の発言が「あいさつ」の意外な真意を指してしまっているところが面白い。「あいさつ」の本当の大切さはその無意味なところにあるのだと思う。例えば、自己言及のパラドクスなどの例で「私は嘘つきだ」という様なものがあるが。その様な言語のパラドクスの中で「あいさつ」というモノは、例外的なモノなのだ。「私は嘘つきだ」という人の「お早う」は嘘でも真でもない。その人物がどんな人物であっても「あいさつ」というモノは嘘や真の問題からは免れるモノであり、それが「あいさつ」というモノなのだ。一日のはじまりに、真偽や意味性から免れた「あいさつ」に始まり、日常生活の様々な人間関係の中にはストレスやすれ違い、恨みや辛みなども当然あるものだが、一日の終わりにもう一度「あいさつ」で相手と別れるというのは何だか感慨深い行為に思える。日常の習慣になっている行為のパースペクティブに気が付く事は、些細な事かもしれないが、日常に潤いを与えてくれる大切な行為なのかもしれない。おやすみなさい。

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