2012年12月30日日曜日

I Get Around

 「正論」という言葉にはどういうイメージがあるのだろうか。自分の場合、学生の頃なんかは、「正論」という名の「極論」を振り回し。友人と仲たがいをしたり、女の子を泣かせたりしていた。今考えると本当に恥ずかしい。一般的に考えられる「正論」のイメージも「正論をふりかざす」などの言葉がある様に否定的な使われ方、悪いイメージが強いような気がする。「正論」自体が何らかしらの考え、思想などに固執する様な姿勢があるからだろうか。リベラルな姿勢が好まれる昨今であるけれど、何らかしらの意思表示を知る時には、そのリベラルな姿勢が時に曖昧さや無知や無関心へと転換して他の姿勢に繋がっていってしまうのではないかと自分は思ったりもする。話はずれるかもしれないが、渡辺一夫という人が書いた「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」という評論を学生の頃に読んだ事を思い出した。この文章を読み、考える事は自分の中にある「倫理観」に対しての挑戦であり、同時に自分の中にあるモノを再考する、とても良い機会であった。あの頃と比べて、「他者」と関わる事、話す事、議論する事の意味や意義が大きく変わり。自分にとっての欲するモノや得るモノが違うが、自分の中にあるモノが転換したとしても、変わらず自身の中心にある動かぬ「点」の様なモノであり続けるモノは確実にある。これを軸に自分はどんな姿勢でこれから立ち続けていくのだろうか。

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