2013年1月27日日曜日

Kopernikanische Wende

 色んな事を含めて「女性」という存在は常に気になる存在である。時にはそればかり、考えてしまう事すらあるのだが。その対象である「女性」自体について、「女性」がその瞬間に何を考え、どの様な事を思っているのかという事はに対して意外と考えてはいないし、おざなりになっていたと思う。つまり、自分が勝手に投影した「女性」に対して、悩み、苦しみ、裏切られてきたのではないだろうか。近視眼的に考えれば、それを反省し新たに見出した「女性」と向き合っていくべきだ。なんて言うんだろうけど。物事はそんなに単純ではない。「女性」の実存の様なモノを追い続ける行為こそが、男性主義的な習慣であるとしたら、同じ事の繰り返しにすぎないだろう。自分は何時も「女性」の声を求めているのだが。それは虚ろな響きしか持たない事が多い。それについて思考を巡らす事には非常に心的負担が大きい気がするが、ただ、同時に「希求」も大きいのも確かである。やはり、基本は系譜学的に物事の見通しを立てていき、固定されたモノを脱構築していかなくてはいけないのだろう。そこで見出されるものが、今、自分が抱いている「希求」とは程遠いモノで在ったとしてもだ。残念ながら、それが知性と行動を繋ぐ「こころ」というモノなのだろうか。今までの自分と「女性」の関係性を考えるとやはり「現実」と「幻想」の両方を眼の前に突き付けられる。

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