2013年2月28日木曜日

品行方正

 他者からの助言を自分なりに軌道修正したり、自分から体を寄せていって自分に響かせる事ができるようになった。少しの違いや外れに目の色変えて、跳ね除けていた時に比べたらよっぽど合理的で生きやすいぜ。様々な「狂い」のニュアンスを言葉で説明するのはひどく難しい。なぜなら、まず自分自身が冷静に「狂い」を捉えなくてはいけないからだろうか。とはいえ、その行為自体が「狂ってる」としたらそれこそ幾つ「狂え」ば良いのだろうか。ほらほら、すぐにこんな調子で「狂って」きてしまった。幾つもの塀を乗り越えて、辿り着くイメージとしての「狂い」は「眩暈」の感じというのが自分としては一番しっくりする。それは言葉としてだけでなく、視覚的、肉体的な実感からもだ。だから、地面は大事だし、上下左右は在りがたいモノなのです。

2013年2月27日水曜日

!!!

 今の目的が糞みたいな社会を内側から観る事だとしたら、素晴らしい日常を送れていると思う。阻害したモノの回帰のような形で今、自分が社会に存在してるようなイメージだ。少しカッコ良く言いすぎかな。今まで独りで考えていた事というか、形式を其の儘に生きれば良いだけの事だし、それしか出来ないし、一番それが笑えるよ。こんな考え方が少しでもできる様になった自分が嬉しかったりもする。こういう知性の使い方は理想的。そして、剛力彩芽は可愛いと思うけどなあ。

2013年2月26日火曜日

 今朝は電車が途中で止まったので、何時もより長めに居眠りができました。満員電車は座れればなかなかだけど、立ちっぱなしはかなり厳しいですね。たまに、間違って女性専用車両に乗ってしまっている人を見かけます。羨ましいですけど、気をつけましょうね。先日、スローモーションやリプレイの技術がスポーツや格闘技の楽しみ方を変えたという文章を読んだ。楽しみ方もそうだが、テクノロジーなどが人間の感覚や感情にどの様な作用をするのかは、とても興味をそそられる。人間がテクノロジーやコンピューターなどに拠って進化したり、変化したりする様な事も語られているが。その部分より相変わらず変わらない部分があるのか、どうなのかの方がめちゃくちゃ気になります。

2013年2月25日月曜日

Epigonen

 気が付けば岸は遠くにあり、体力は使い果たしてしまい。もう駄目かと思ったら、自然と流れが岸へと運んでくれた。日々の反復で気が付けば訳の分からないところへ流されてしまった。「分からなくなったら確実な地点に戻ってやり直せば良い」そんな言葉を思い出して。また、明日から頑張る。物事をシンプルにする事は見た目の何倍も大変な事だ。そして、シンプルさを継続する事は気が遠くなるほどの根気強さが必要だ。それにしても、シンプルはスマートで美しい。

2013年2月24日日曜日

L.v.Beethoven:Symphony No.7 in A- major Op.92

 Sigmund Freud『人間モーセと一神教』の冒頭付近にある「のちの科学的な知識を先取りするかのように、太陽光線のエネルギーが地上のすべての生命の源泉であると主張した。」という部分を読んでいて。嗚呼、本当に先取りと同時になんか予言的だなと蒲団の中で激しくモゾモゾしてしまった。現代にそういうレヴェルで物事を語れる人がはたしているのだろうか。夢か現か分からないけど、誰かが家のベランダから「未来を知る唯一の手段は過去を知る事だ」と叫んでいた。はっきり言って近所迷惑だよ。

2013年2月23日土曜日

すっぴんだよー

 例えば、普通に男女がいて片方が真剣に話し、もう片方が真剣に聞くその姿は本当に美しい姿だなと何でもない二人組みの姿を観てあこがれた。「過ぎたるは知恵の殿堂をなす」という言葉も好きだけど。「当たり前の事を当たり前にできる事は素晴らしい事」という凡庸な言葉も大好きなのです。お昼に「大勝軒」でつけ麺を食しました。つけ麺は意外とつるつると沢山食べれるけど、後からお腹が膨れて来ますね。帰り路の途中で動けなくなってしまいました。公園のベンチで吉本隆明の『最後の親鸞』を読んでいた。意外と消化に良い読書であった。フフフ・・・

2013年2月22日金曜日

優しいサヨクのための嬉遊曲

 週末の終電は普段とうって変わって、とても賑やかだ。酔いの影響もあるだろうけど、みんな明日からの休日に対する感情が溢れているのだろう。
このままの顔で春を迎えるの?
 玩具になって、周りの人達におもしろ、おかしく遊んでほしい。他力本願で全然問題がないです。依怙地になって硬直した個人にそして、関係にってしまうのであれば疲れるだけでしょ。まあ、玩具ってカクカクしてて、扱いやすい部分もあるのかもしれないけど。
5年に一度のトレンド転換期到来 

2013年2月21日木曜日

悲しき玩具

 communicationの外にdiscommunicationがあるのではなくて、communicationの中にdiscommunicationが含まれているのです。しかも、discommunicationがcommunicationのほとんどを占めるという事に気付いた時は心の底が抜けた気分になった。当然、それらは人の中にあるのではなくて、人と人との間にあるモノなのだ。和辻哲郎の「人間を個人と社会を弁証法的に統一した 間柄的存在とした。」という「人間」の事を思い出した。

2013年2月20日水曜日

もののけ姫

 自分もamazonなどで色々な物を買ったりすることがある。殆どのモノがネットで買える時代だけど、今日、「会社」も売ったり買ったりできる事をはじめて知りました。普通に常識のある社会人ならば知っていて当たり前なのかも知れないけど、自分は「やばい」人なので当然知りませんでしたよ。そもそも、「会社」て誰のモノかすら解からないのですが。ある人がそこのところを一生懸命説明していましたが、なんか難しそうでした。「会社」という存在は日本で最も謎な存在である事に、間違いはないと思いますけど。なんだって「モノ化」できれば売ったり買ったりできて、ビジネスに成るんだろうけど、夢中になりすぎてある日突然、その括弧が外れた時に何が現れるかは、恐ろしくて想像すらできないですよ。

2013年2月19日火曜日

Please keep fingers away from closing doors.

 クヨクヨ悩まずに、コツコツ学んだ方が良いんだよね。その先にある、悩みにいち早く到達するためだから。なんて、意地悪な事を言いながら進むんですけど。今朝は何時も以上に目覚めが悪かったけど、そんな事は一生付きまとう事。例えば、蒲団の中で朝、起きられずに遅刻した人がいる。同じように蒲団の中で朝、頑張って何とか起きて遅刻せずに出勤した人がいる。この両者の違いはなんだろう。両者とも「眠い」のは同じはずである。両者とも理由は同じで、一方は「眠くて」起きられず遅刻する。もう一方は「眠い」けど頑張って起きて出勤する。なんだ、遅刻しようが、しまいが理由も動機も同じなんだ。それを信じるか信じないかはあなた次第。

2013年2月18日月曜日

知恵の輪

 今日は甘酒キャンディを貰い、ちんすこうを活発に食していたら傘の柄の部分に被さっていたビニールを知らぬ間に取られそうになったり。何だか詰まらない一日だった。決して、それは天気のせいでも月曜日のせいでも無いと思うけど。そんな事で誤魔化してたけど、今日は「恥ずかしい」事ばかりで、一日疲れてしまった。半分は進行形の自分の「恥ずかしさ」で。もう半分は過去の思い出し「恥ずかしい」である。「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」なんて言うけど。特に最近、こんなに種類があるのかと感心するくらいの「恥ずかしい」に埋もれて、窒息しそうですよ。二回目になるけど、思い出し「恥ずかしい」は本当に嫌だよ。

2013年2月17日日曜日

殿一気

 ある悩みに対して別の悩みが交差する事によって、可視的になっていた自分の悩みが少し遠ざかり全体を見渡せる余裕が生まれる感覚がある。以前、数多くの悩みに混乱してその悩みを一つに統一して解決するような単純な普遍性を求めていた、おかしな自分。あの頃にこねくり回してなんとか現実から逃げ様としていた術を今、現実に向かう術として転用できないだろうか。それは同時に他者に対して自身を向かわせる術にもなるのだと思うのだが。

2013年2月16日土曜日

ジェットにんじん

 喉が嗄れるほど、顎が痛くなるほど喋りまくり、笑いまくりの草お笑いに高じる。あれだけ多くの人達と会う事ができて、お喋する事ができる機会を与えてくれた恩師に感謝している。そして、調子に乗りすぎてお腹が痛くなってしまったのは一つのネタとして片付けてもらいたい。同時に学生の頃と変わらず、好きなことを喋り振舞う自分に帰り道はうんざりもさせられた。こんな事の繰り返しで齢を重ねるのならば、わけはないなと靴が重くなった。

2013年2月15日金曜日

Waiting For The Sirens' Call

 「物語る」という言い方をするけれど、物語をどの様に「撮る」のかについて考える。その行為には一種の二重性があるのだと思う。超越論的な行為、問題。少なくとも人にそのような事を喚起させる素晴らしい映画だったWesley Andersonの『ムーンライズ・キングダム』は。他者に「解かりません」と言える様になった自分だが、書物や芸術に対してなかなか「解かりません」と諦められない。そのせいで宙ぶらりんの儘になっている本が沢山積まれている。書物の良いところは開け閉めが自由で、読者の気まぐれに何時でも所構わず寛容に迎えてくれるところだ。その態度が自分を書物に繰り返し向かわせる大きな理由の一つである事に間違いはない。自分もいつかは書物みたいな態度を他者にとってみたいと思うが、誰にも開いてもらえなさそうで、悲しい気分になった。

2013年2月14日木曜日

lobbying

 書くという行為に常に付きまとい、晒される。何を取捨選択するかという行為、それを避けながら、その「責任」から逃れて何かを書こうとする事に無理があり、幻想なのだと。最近、特に自分がその幻想に酔い、甘えている自身に気付き、違和感を感じていた。目指すのは「硬質な文章」と云う言い方があると思うがイメージとしてはそんな感じだろうか。何を言っているんだか、全然違うような気がする。少なくとも、文章を書くことに付きまとう「責任」を回避して、文章の「自由」を描く事も、伝える事も味わう事なんてできないだろう。

2013年2月13日水曜日

危険日

 簡潔さとは程遠い文章。自分のブログを読むたびに、内容以前に感じる文章の読みづらさやくどさの事。眉間に皺を寄せている読み手の顔が容易に思い浮かぶ。自分自身、多くの言葉や中身を詰め込みすぎるのは自信の無さの裏返しだと思っている。自信の無さとはなんだろうか。そもそも、文章に自身の考えを入れようと意識しすぎて、必要のないモノが文章に混じり混乱させている。そのモノとは文章に本来は必要のない自信だったり、それを顕示しようとする虚栄心なのだろう。そう考えてみると、文体自体にその恥ずかしいモノが現れてしまっているのである。もう書くのを辞めてしまいたくなるほどの恥ずかしさだ。こんな事くらいではやめないけどさ。

2013年2月12日火曜日

catastrophe

 時間のなかなか取れない中、通勤の電車や就寝の前に、僅かだが時間を作って読書する習慣。働き始めたら、読書をする時間も余裕も持てずに徐々に書物から離れていくだろうと思っていたが。読書という行為ももちろんだが、自身の中で読書を欲する気持ちの持続に自分自身驚いている。だから、帰宅の電車内で聴いていたSuperchunkの『Come Pick Me Up』はその儘にBaruch De Spinozaの『エチカ』の本を閉じてその理由を考えてみた。おそらく、結果の方より原因のところに答えがあるようだ。学生の時に読んだ夏目漱石『こころ』の最後にある部分で「始めはあなたに会って話をする気でいたのですが、書いてみると、かえってその方が自分を判然描えがき出す事ができたような心持がして嬉うれしいのです。」という文章があり、特に自分は「うれしいのです。」という箇所に強く共感し、理解した記憶を思い出した。日々の読書の中で何かを理解したり、感じたりしようとする行為に集中しすぎて忘れていたのだが。自分を読書、書物に向かわせる動機やエナジーはこの「うれしいのです。」という部分に対する強烈な共感、理解が始まりであり原因だったのだ。当然といえば当然の話しだとも思うが。これが「遠近法的倒錯」なのだろう。

2013年2月11日月曜日

はれときどきぶた

 昨日、今日と風が吹いて体感温度が低く感じますね。雪の降る日というのは意外と暖かく感じたりもするのですが、空気が乾燥して風が強い日は本当に此処が世界で一番寒いのではないかと錯覚するほど寒いです。沖縄が羨ましいですよ。先ほど、久しぶりにピラメキーノを拝聴しました。子供番組から、面白い番組が生まれる確立が高いのは何でだろー。子供の方が大人の何倍も打算的だし、率直だからなのだろうか。自分も今より子供時代の方がよっぽどソリッドだったと思う。お笑いにだけ何かと厳しかった気もするし。別にそれが良い事とも思わないし、戻りたいとも思わないのだが。結局、今の自分で過去に戻りたいという、大人まるだしの考えがあるだけなのである。時々、「子供ぽい事を言うね」と指摘されるけど。自分の中では決して子供の時に自分をこんなに客観視した発言、考えはしなかったよ。と思っている。自分の事はもちろん、他者も含めて優しく大事にするような考えや発言が子供ぽいとしたら、それは少し淋しい気がする。子供は君達が思っているような存在ではないんだよ。とガキがほざいている。

2013年2月10日日曜日

暖簾に腕押し

 今日はCSで放送していた阪神タイガースのキャンプ中継を見ながら一日だらだらしていた。内野の守備練習をひたすら見ていたが、全然飽きない。自身が野球をしていた頃が完全に守備の人であったからだろうか。それにしても、鳥谷選手と西岡選手のダブルプレーは巧いというか、当たり前のプレーを淡々とこなす姿にプロ野球選手の凄さを感じる。二人は文句無く一流の選手だが捕球、送球の正確さはもちろん、練習ではあるのだがその姿勢が本当に勉強になる。野球選手を目指している人は試合を観る事も大事だが、プロの練習を観る事を重要視した方が良いかもしれない。本当は他にも読書をしたりなんかしていたんだけど、学生時代に書いていた読書ノートに引用されていたImmanuel Kantの「他者を手段(自然)としてのみならず、同時に目的(自由)として扱え」という文章を見つけて、今の自分は勇気付けられた。特に「他者」という言葉に自分自身が救われたのだと思う。何故だろう、同じような事をよく考えるし、感じる機会が多い。

2013年2月9日土曜日

551

 最近、「解からないです」がちゃんと言えるようになってきた。以前は解からない事があっても無理やりに何らかしらの答えを返えすか、質問の答えを遠回りして他の話題にすり替えるという事をして逃げたりしていたが。「自分は解からないですけど、あなたはどう思いますか」みたいな会話の切り返しを覚える事によって会話の幅広がり、相手とのコミュニケーションも円滑になったような気がする。自分に「素直」になる事が一番、自分を助ける事になるのですね。今更ながらですがそう感じています。話は変わるが、Σωκράτηςは「自身の問答の特徴を人が自ら真理に辿り着くのを助けることであるから。母の従事していた仕事と結びつけて、産婆術と呼んでいたらしい。」
 今日は午後にWesley Andersonの『ムーンライズ・キングダム』を鑑賞。今なお、映画の滑らかな余韻に浸っている。鑑賞中にふと白雪姫は王子様に口づけをされて眼を覚ますとかそういう話だったような気がしていたが、実際はそういう話ではないようなんだけど。自分の思い違いなんだろうか。そのうる覚えの続きでなぜ口づけすると息を吹き返し眼を覚ますのだろうかと、こんがらがりながら過ごしていた。

2013年2月8日金曜日

オレオレ詐欺

 Facebook内での人間関係に疲れちゃった人が多くいるらしい。やってないけど、凄く解かるし想像できる。最初は楽しくて、自分の為にやっていた事が、いつの間にか義務になり苦役になっていく流れ。誰だって経験した事がある筈だ。自分が始めるとしたら、巧い具合に人間関係を切断するためにFacebookを利用したいと思う。カジュアルブロック連発ですよ。何か知らんし誰だか解からんけど、みんなで一喜一憂していこうよ。と呼びかけてみる。質問が次から次へと浮かんできて顎が外れるくらい、笑いあって相手を呆れさせたい。疲れたら、そのまま眠りたい。帰りの電車で文章にしておかしい事は文章がおかしいのか、その出来事自体がおかしいのか解からなくなっていたら、自分の前の席が空いた。ラッキーだったぜ。

2013年2月7日木曜日

大審問官

 非常事態に遭遇すると無力であたふたしてしまう、自分を知ることになる。特に独りの時は精神的な動揺も大きくなり、か弱くて情けない自分の側面を見出す。もちろん「誰だって、そうなんだよ」だから、自分の無力さを認識する事が他者の重要さに気付く事に繋がるのだ。一つは孤独を通して。もう一つは非常時を通してなのか。不測の事態に対して、人は無力であり、心もとない準備や備えしかできないのだろう。René Descartesが言った「我思う故に我あり」の「思う」は正確に翻訳すると「疑う」という意味らしい。その自分自身に向けられた「疑い」が自身の無知はもちろん、弱さ、狡さ、素晴らしさを知る術になる。どんな理論や言葉よりそして、芸術よりも「現実は奇なり」だ。当たり前の事かもしれないが、自分は最近までその現実を直視せずに、知らんぷりをしていた。そんな人間の弱さの為に理論があり、言葉、芸術の素晴らしさがあるのだろう。今日はそんな事を実感する一日を過ごし、ブログを書いている。

2013年2月6日水曜日

Horela lipka, horela

 代表の本田選手がゴールを決める事も凄いけど、その試合を当然のごとく観れなくて、会社に残り働いている多くの人達だって。本田選手が当たり前のようにゴールを決めるのと同じように、当たり前すぎて本人も気付いていないだろうが、当然凄い事だと思う。今日の代表の試合を観れなかった自分を慰める手段として多くの人達を持ち出し、それに自分を紛れ込ませて、本当に回りくどいし、めんどくさい事を書いてしまいました。それにしても、物事を簡潔に話す事も、書くことも途方も無く、難しいを実感する日々を送っている。若き日の自分はよく偉そうに作家の批評をしたものだと、在りし日の草お笑いの事を想い出すのであります。

2013年2月5日火曜日

粉々

 もちろん教育や指導は大事な事だとは思うけど。本当に大切な事は自身が人間関係の中や社会の中で実際に体験して学ぶモノだから、それを阻害したり妨げる様な事はどんな理由であれゆるされない事だと思う。ある意味でその人間の姿を見守る事こそが一番で唯一の教育や指導なのかもしれない。それは見守る側としては、とても忍耐強さを求められ難しい行為だと思うが。自分も過去を振り返った時にそういう見守りのまなざしによって大きく成長させられたと思うし、今でも感謝している。

2013年2月4日月曜日

雪やこんこん

 学生の頃、毎日通学で利用し、それこそ何百回と通った路をある日突然、偶然のきっかけで通った時に感じるざわめきは何なんだろう。車窓から見える景色。すっかり変わってしまった街並み。まったく変わらずに、取り残された老木と共に公園。だけど、あの頃の景色と現在の景色との間に横たわる景色の存在を自分はよく知っている。もしかしたら、その横たわる景色は常に自分の内に立ち現れる、「忘れえぬ景色」なのかもしれない。
 それにしても、帰路へと急いでいる時に起こる、電車の遅延や運休はおもわずため息が出てしまうほど残念な出来事だ。

2013年2月3日日曜日

海砂利水魚

 「鬼は外、福は内」てな具合に今年も節分の豆まき完了しました。もともと、豆好きな自分にとっては節分は大好きな行事の一つです。コタツでぽりぽり、年齢の何倍も食べてしまいお腹を膨らましてしまいました。代わりに、福がたまってくれれば良いのですが。今日は近所で餅つきの方も行われていたので、お餅も頂いてなんだか正月に少し戻った気分でした。早くも、二月も三日でなんだかそれが一番考えられない事なので、世の中で起こっている、考えられない事やふざけた事件などは全然気にならなくなってしまいます。それは嘘ですが。それにしても、どんなジャンルの報道にしろ受け手側になんらかしらの、意見やリアクションを過剰に求めているように感じるのは自分の被害妄想だろうか。そりゃあ、意見が無いわけでも、何も考えてない訳でもないが自分の頭の中や心の中に留めて置いても良いだろうと、こっちの勝手にしておいて欲しいと言いたくなる。

2013年2月2日土曜日

故国喪失者

 昨日あたりからMacbookを買おうか、iPad miniにしようかそれとも、スマホを買おうかと優柔不断に右往左往していました。それにしても、ネット端末の通信プランなども含めた価格体系が何とも複雑だという印象を受ける。どこの企業もユーザーに同じ額のお金を負担させるにしても、どれだけ負担にならないように見せるか。そして、それを支払って貰いより多くのユーザーを獲得するかについて考えているのだろう。もちろん、それだけ競争が激しく大きく成長している証拠でもあるのだが。何だかんだ言って買わずにいるのは、おそらくいつの間にか自分がそういう消費体系に乗り遅れているせいでもあるのだろうか。
 久しぶりにM. Night Shyamalan監督の『シックス・センス』を鑑賞。この映画ほど「ネタばれ注意」が語られる作品もないのではないだろうか。だが、この作品は観るたびに新たな発見がある作品で、繰り返し観る価値の在る作品だと思っている。自分はこの作品を知って、「ネタばれ注意」など「注意」する必要はなく、「ネタ」などはいっそのこと「ばらして」くれた方が映画を集中し、心底楽しむ事ができると思うようになった。だから、貴方が面白い映画を知っていて、何時か逢う時が来たらどうか遠慮せずに好きな映画の話をして下さいな。もちろん、「ネタばれOK」であります。

2013年2月1日金曜日

わーわー言うております お時間です さようなら

 子供の頃に時間や場所を含めたありとあらゆるモノを忘れて、ある事に夢中になった体験を誰でも持っていると思う。それはとてつもなく大きい財産なんだよ。今、現在の自分が望んでいるモノであり目標でもあるのが、あの頃の様に夢中になれるものを見つける事、その状態に没入する事である。叶うと良いのだか、悪いのだか。そんなくだらない話は「よせやい」と思われる方がいるかもしれませんが、大丈夫なのです。何といっても今は金曜日の夜だからです。そして、日常生活を送っていると聴く事の大切さを、あっという間に忘れてしまいそうになります。それは言葉を語る人間の宿命なのでしょうか。