2013年1月31日木曜日

親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている。

 汚れてしまう事に対して、汚れていない者の方が過剰に反応して呼応するのはなぜだろう。今、考えると当時の方が汚い言葉を吐いていたし、周りに迷惑ばかりかけていた事を思い出し、残念だと思う。自分自身の清潔さを保つ為、守る為に周りを汚していたんだと思うと今度は一気に懐かしくなる。結局は過剰に反応してしまう事に問題があるのだろうか。一種のアレルギー反応と同じだろう。それは「たとえば狐の皮衣」なのだろうか。缶ビール一本でいい加減になってしまった。

2013年1月30日水曜日

スチャラカでスーダラなラッパー

 ブログを書くことは「習慣」なんだけど、一方で「習慣」になってしまいたくないという気持ちがある。おそらく、どういう事か解かってもらえると思うが。数字を数えていくように、規則的に唱えるのではなく。一つ一つの事象、機会を大切にしながら書かなくては意味がないという事。その行為が、日常生活の方へとフィードバックされていくはずだと信じている。何かを信じるのは良い事だけど、それを忘れてしまう事も人間の素晴らしい部分だったりもする。疲れている時はすぐ、厳しい事を考えたり、縛りをしてしまう事があるけど、リラックスして早く寝る事が一番だと思う。おやすみなさい。

2013年1月29日火曜日

evol

 早朝、左足に「こむら返り」が発生して大変な思いをした。夢現の状態での対応なので最悪の場合、逆の足に誘発して「ダブルこむら返り」なんて事にもなりかねない事態だったので、苦痛に耐えながら慎重に対応した。ただ今日はずっと足に違和感を感じながら軽くびっこを引きながら過ごさざるを得なかった。早朝からそんな眼に遭うと、なんだか非常にやり辛い一日になってしまった気がする。
 クーデター級のこの夢物語がたとえ肩透かしに終わったとしても。それは十分に観る価値のある映画には変わりが無いはずである。こんな事を記す事が何でもない世の中である事、どんなに凡庸であるかをすぐにでも確認をしたかったのである。それはJ.J. Abrams監督が『Star Wars: Episode VII 』を撮るというニュース。残念な事に凡庸さや逃避などをも超える初期衝動があるという事も確かな事実だと思う。

2013年1月28日月曜日

Everything But the Girl

 夢の中で誰だか分からないがというか結局、自分自身なのか分からないが。誰かが「自分は大人になったから傘を買うのだ」と言っていた。iPhoneでも女性、車ですらなくて傘をその誰かさんは大人になったので買うらしい。別に傘を買う事は勝手にして貰って結構なのだが。その「大人」という単語やなぜ宣言のような形でされなくてはならなかったのだろうか。という事が夢から覚めても頭から離れなかった。仕方が無いので自分は帰りにユニクロでオリーブ色の折りたたみ傘を購入してしまった。ふざけた話だが、現実に新たな線を引き直す事と同じくらい夢や幻想にも新たな線を引き直す行為は大事な事だと思う。ちなみに、今朝の雪が丁度良いのか、中途半端なのかは自分には曖昧過ぎて判断しかねる事であった。現実と夢に引かれた、それぞれの平行な二直線が「永遠」に結ばれるか否かは誰にも解からない事である。

2013年1月27日日曜日

Kopernikanische Wende

 色んな事を含めて「女性」という存在は常に気になる存在である。時にはそればかり、考えてしまう事すらあるのだが。その対象である「女性」自体について、「女性」がその瞬間に何を考え、どの様な事を思っているのかという事はに対して意外と考えてはいないし、おざなりになっていたと思う。つまり、自分が勝手に投影した「女性」に対して、悩み、苦しみ、裏切られてきたのではないだろうか。近視眼的に考えれば、それを反省し新たに見出した「女性」と向き合っていくべきだ。なんて言うんだろうけど。物事はそんなに単純ではない。「女性」の実存の様なモノを追い続ける行為こそが、男性主義的な習慣であるとしたら、同じ事の繰り返しにすぎないだろう。自分は何時も「女性」の声を求めているのだが。それは虚ろな響きしか持たない事が多い。それについて思考を巡らす事には非常に心的負担が大きい気がするが、ただ、同時に「希求」も大きいのも確かである。やはり、基本は系譜学的に物事の見通しを立てていき、固定されたモノを脱構築していかなくてはいけないのだろう。そこで見出されるものが、今、自分が抱いている「希求」とは程遠いモノで在ったとしてもだ。残念ながら、それが知性と行動を繋ぐ「こころ」というモノなのだろうか。今までの自分と「女性」の関係性を考えるとやはり「現実」と「幻想」の両方を眼の前に突き付けられる。

2013年1月26日土曜日

1,2,some shit!

 久しぶりに二次会でカラオケに行った。中高生の頃は暇さえあれば、カラオケ店に入り浸っていたが、二十歳を過ぎた辺りからパタリと行かなくなってしまった。行くメンバーによって変な縛りみたいなモノがある事を意識するようになったからだろうか。
1.Mr.Children 『君がいた夏』
2.米米CLUB 『Shake Hip!』
3.キリンジ 『you and me』
4.小沢健二 『それはちょっと』
 世代がばれてしまいそうだけど結局、カラオケに行くとみんな懐メロ歌うんだよね。「あの頃は良かった」とは思わないけど「あの頃も良かった」とは思う。それにしても、以前に比べて声も出なくなったし、直ぐに舌は回らなくなり、間奏の部分で思わず虚空を見つめて齢の事を考えてしまった。そろそろいい歳なので、齢をとる事に馴れて生きたいなと思う。

2013年1月25日金曜日

Why Don't You Get a Job?

 英語も苦手というか不可だけど、同じくらいカタカナも苦手です。日常茶飯事として、言い間違いや書き間違いなど繰り返しております。更に悪い事に自分の周りにはカタカナFBIが必ず一人はいて必ず監視をしています。今日もその一人に些細なカタカナの間違いを指摘されて、軽く無視をしながら直してやりましたよ。なんか、平和な噺ですね。因みに長い間、自分は「ラツィオ」となかなか書けないで困っていた時期がありました。そんな時を経て今の自分があります。書くことが無ければ、さっさと寝れば良いのですが、「継続だけが力なり」というスローガンを揚げて日々ブログを書いておりますのでそれはできない話なのです。

2013年1月24日木曜日

sad vacation

 年下に対して、偉そうに自分の考えを話し、いい気になっている奴って本当に痛いよね。話されている子も「やれやれ」と思っているだろうが。周りにいる全員が「やれやれ」の大合唱をしている事に話している本人は気付いているのだろうか。更に話しきった後で我に返り、自分の振る舞いに対して弁解して謝る姿は尚、醜い。今日は帰りに良い具合に褒められ、自分の好きな話題をふられて、調子に乗って「ペラペラ」喋ってしまった。それにしても、聞き上手な年下は一種の麻薬かもしれない。申し訳ないから、彼の為にそっと良い事をしたいがそれを書くのは更に卑しいな。そんな厭らしさを撒き散らしながらサドルを一番低くした自転車を走らせ、駅からの道を行く。

2013年1月23日水曜日

一身上の都合

 自分はよくUFOを見る。いきなり、おかしな事を言い出したよ。何て言わずに少し聴いてほしい。一般的にUFOは夜に見られるイメージがあるかもしれないが、自分の場合は昼間が圧倒的に多い。あとは、電車に乗っている時に車窓から見るケースも多いかな。因みに、子供の時は全く見た事がなかった。別に自分はUFOの存在であったり、宇宙人の存在を頑なに主張したいとも思わないし、そういうモノを信じているとかそういう事ではない。実際によく見るという事だけを言いたいし、此処に記しておきたい。まあ、宇宙人は確実に存在するとは思うけどね。それが自分にそして、我々に何をもたらすかはその存在の有無に関わらず大きなモノである事には変わりが無い。

2013年1月22日火曜日

TTG時代

 今日は帰りに中目黒で詩人の谷川俊太郎に遭遇した。駅前で出版関係者であろう女性に何やら熱弁されていた。さすが、稀代のプレイボーイ谷川俊太郎。あんなに眼を輝かせて楽しそうに語る人を自分は初めて見ました。それはとても羨ましく、同時に嫉妬すらしてしまいました。詩人とはまさに人に嫉妬されるそういう存在なのだろうと一日の疲れも吹っ飛ぶ納得をしてしまいました。ちなみに、同じ詩人である鮎川信夫の「垂直的人間」の事が最近、解かる様に成ったという事を今更、言うべきか言わざるべきかを満員電車の中、他人の体にもたれ、楽をしながら考えていた。

2013年1月21日月曜日

恋する虜

 みんなは知ってるかい?日本三大珍味がなんだか。ウニ、カラスミ、コノワタの三つなんだよ。最近、はじめてカラスミとコノワタを食したのだが。正直、あまりその堪らなさ具合が解からなかった。ウニの堪らなさ加減は十分理解できるのだが、特にコノワタの素晴らしさを知るには自分はまだ苦労が足りないのだと思う。まあ、少なくともウニくらいの苦労はさせてもらっているという事です。相変わらずカレーやハンバーグなんかも好きなのだが。齢を重ねるごとに、クセがあったり、苦味、くどさ、などが堪らなくなってくる。流行歌だって今も昔も大好きだが。余りに作り手が聴き手の事を考えてくれて、余りにも耳障りが良く、美味しい部分だけしか残っていない場合が多い。音楽も同様に齢を重ねてくると、少し偏屈なビートであったり、ノイズがかかったクセのある音楽が堪らなく成ってくるというのが本音なのである。

2013年1月20日日曜日

Nevermore

 本日、Francis Ford Coppola監督の『Virginia』を新橋にて鑑賞。冒頭から「映画」の世界に沈み込むような感覚は、あたかもスーパーカーの車体が急発進。一瞬にして眼の前の景色が背景へと退く感覚か?それとも気付けば、私達を1オクターブ先にあるスクリーンの世界へ投げ込む所作か?まさか、湖へ静寂と共にに吸い込まれ沈んでいく船の傾きか?自分のどんな戯言よりクエッションマークが強く物語ってしまうのは決して「映画」のせいでは無い事だけは伝わって欲しい。作家のその技術ひとつ一つに作家性が強く刻印されていて、日常化されたテクノロジーの中で作家自らが蘇り再生する姿を私達に錯覚させる。その様に想起させるのは「芸術」特に「映画」が現在性を背負わざる得なかった為なのだろうか。もう少し観ていたかった。というのは批評としてとても贅沢な事だと思う。余談だが、AJCCはキッチリ獲らせてもらった。

2013年1月19日土曜日

Keynesian beauty contest

 男性のセクシーなボーカルは何だか体の芯から揺さぶられるような快感を自分に与えてくれる。Steely Danの『Gaucho』を聴きながらその快感に酔っていた。どこか屈折していて、自嘲的ですらあるユニークな歌詞やjazzやR&Bなど様々な音楽的ルーツを深く持つ偏屈なビートが相まって独特な雰囲気を創り出しているのだろう。そこには、一番自分から程遠い思われる大人の男の色気が広がっている。同時に何時までたっても、普遍的に付きまとう男性の弱さや女々しさ、苦悩が滲み出ているのだが。自分も何時までも馬鹿みたいに口を開けていないで、少しは大人の男らしく苦悩のポーズくらい身に付けたいものである。じゃんじゃん。

2013年1月18日金曜日

Roll over beethoven

 雨の日に雨水が側溝へと勢い良く流れていく様や、焚き火の熱さや燃える勢いに吸い込まれる様に見入っていた時間、雲がジブリの世界の様に猛スピードで流れていく様を見上げている幼少の頃の想い出を強く覚えている。そんな自然の移ろいを「永遠」に眺めている事ができた時間は今考えるととても贅沢な時間の使い方だと思う。今、そんな贅沢な時間の使い方はできないが、本を読んだり、音楽を聴いたり、映画に感動する時間は自分にとって幼少の頃と同じくらい貴重で贅沢な時間だと思っている。

2013年1月17日木曜日

Optimism as an act of will

 今は自分の「やりたい事」に対して、意識的だから何をやるにも楽しいし、前向きだ。やはり「やりたい事」に対して無意識な時は自身が空回りして、随分と苦しい思いもした。無意識で苦しんでいた時の自分を意識的な今の自分が救わなくてはならないと、変な使命感に燃えている。自分が今「やっている事」は本当に日常的で平穏な繰り返しだが。それだからこそ、「日常に於ける非日常」があるのだと思うし。それは、何時でも不安定で不確定な自分が子供の頃にあこがれていた冒険の世界なのだ。以前は自分が恥ずかしい事を言っているなあ、書いているなあと薄々気付いていたのだが、最近そういう風に感じる事が少なくなった事に危機感を持っている。

2013年1月16日水曜日

Merry Christmas Mr.Lawrence

 彼此、五年程喫煙していたのだが、四年程前に煙草を辞めた。何で辞めたのかというと「なんとなく」というしっかりとした理由から辞めたのだ。そもそも「なんとなく」始めた事に対して、あれこれと理由を付けると逆説的に続ける理由にもなってしまうので、「なんとなく」という理由はかなり意識して持っていた。だから、辞めた今でも喫煙の効用は理解しているし、喫煙に対して否定的ではない。最近の喫煙者に対する社会の反応、対応は理不尽なモノが多いとも思う。もちろん、辞めてから吸わない人が煙の臭いなどから受ける不愉快な思いも理解できる様になったのだが。今更、どちらかに偏った意見を言う気も無いし、そんな筋合いも無い。そんな事する位なら、両方から批判され否定されて「豆腐にぶつかって死ぬ」ほうがマシである。別に禁煙したからといって健康になったという実感はないし、お金が節約されているという感じもない。過度のストレスを感じるような事も無いので本当に不思議だ。そう考えると、喫煙にそもそも意味や理由など無いのだと思う。あるのは喫煙特有のポーズであったり、煙草を燻らせる時に観える景色だろうか。将来に喫煙を再開する時は、その行為を雑に嗜好しない様に愉しみたいと思っている。また、未成年が喫煙するのは無意識に大人のポーズや形の様なモノを求めているのだとしたら、なんか少し可愛いかもしれない。そんな事を考えているとまた煙草を吸いたくなってきた。

2013年1月15日火曜日

あるある探検隊

 ブログに書く話題にしろ、内容にしろ似た様なモノが多いなと今までの文章を読み返しながら思った。まあ、それは寧ろ良い事というかこのブログの面白さであると自分自身は捉え唱えている。無意識な自分の癖であったり、しこりの様にある自身の中の「主題」を感じる事ができるのではないかと。今日はそれを摩りながら、明日書く話題を探している。あと書き忘れそうになったが、昨日の雪は本当に素晴らしい降りっぷりだった。明日以降も路面を凍結させて、僕達を大いに困らせて欲しい。自分は結構、良い齢に成ってきたので良い滑りっぷりを披露できるのだ。

2013年1月14日月曜日

Goodbye to Language 3D

 以前、ミュージシャンやレコード会社はCDやレコードを売る事を主にして多くの収入を得ていた。唯、現在はその様相も変わりつつあり、もはや過去のモノに成りつつあるようだ。今やその販売はコンサートやその他グッズなどのコマーシャルやマーケティングとしての意味合いとして使われる部分や意味合いの重要性が大きくなりつつある。それに依然として気付かない、我々消費者は本来は金銭や支払いに拠って切り離される筈の不安や不満を無意識のうちに抱え込んでしまっている様な気がする。少し物事を極端に簡略化して説明している部分もあるが、そのような事に近いスピードと新しさでマーケットが動き変化している事も事実だ。それらに対応する為には、要所要所で確認の意味も込めてこういった事を文章にし、自分自身のまとめにしている。何が何の為に成っているかが解かりづらい世の中で。過度の不安や恐怖から自身を救う事、救われる事は自分の今ある能力を活かす事や立ち居地を認識する事に繋がりとても重要な事だ。その為には日々物凄いスピードで変化している物事に対して、ある時間を確保して耳を澄ませる事も大事なのかもしれない。それはしばしの休息にもなるだろうし。

2013年1月13日日曜日

Marketplace

 世の中の「秩序」を創り出すのは人間一人独りであり、「同感」という言葉を使い説いたのは『国富論』でも有名なAdam Smithだが。同時にもともと「道徳哲学」を学んでいた事も多くの人が知る事実だ。その彼は今なお「経済学の父」として多くの人達の還るべき知恵の源として尊敬され、多くの人間に恩恵を与えている。その生い立ちや「同感」「道徳」という言葉に立ち返る時に、新しい「経済」「経済学」という言葉が立ち現れ、更新されるのだと思う。混迷の時代にこそ人々は「古典」に触れ、これから進むべき路に対する示唆を求めるが。Adam Smithから私達が学ぶのは「経済」という一見大きく見える小さなモノではなく、基礎的で些細な事に過ぎないかもしれない事柄がとても大事で、大きくなり過ぎてしまった「実体経済」の在るべき姿をそして今、何をすべきかに対する「ある視差」や「行動力」を与えてくれるのではないだろうか。午後、ピアニスト辻井伸行が演奏するПётр Ильич Чайковский を聴いて、喜怒哀楽などの源であり、その先にある「生の力」に触れた様な体験をして感動する。同時に感情の個別性の先にある「生の力」こそが「芸術の力」やAdam Smithを始めとする「学問の力」なのではないかと考えていた。それにしても、「芸術」にしろ「学問」にしろ自分の「固定概念」がいつも自分を締め付け邪魔をする。

2013年1月12日土曜日

Modern Times

 今週は何故か食欲が無くて、周りの人達を心配させてしまった。普段滅多にそういった事が無いので、余計心配されたのかもしれないが。食欲は自分の体調や状態を図るバロメーターでもあるから、普通に食欲があって元気な事の大切さや、食べる事の幸せを強く感じた。幸いにも、食欲は復活して今日は沢山食べる事ができ、あっという間に体重も戻りやした。自分はテレビもグルメ番組が好きで、ザッピングしていると思わず止めて観てしまう。当然、匂いも味もしないテレビでグルメ番組というのは、それだけで面白い企画なのだが。映画などでも食べるシーンが必ず使われるが、それは食べ物自体の主である味や匂いではなく、その食べ物を囲む食卓といった場所が人と人を繋ぐ場所、集まる舞台を作り出す装置として使われているのだろう。バラエティ番組『お試しかっ!』なんかは家族や友人同士などと集まって観ると本当に盛り上がって、楽しい時間を過ごせる番組でいつも楽しませてもらっている。

2013年1月11日金曜日

404 not found

 通勤時に自身のipodからランダムに流れる曲を聴きながら、なかなか良い曲が流れるじゃないかと、気持ち良くなっていた。それは当然で、その為に自分が払った代償は決して安くはないと思う。そして、今その投資の見返りを受けているのだ。と自分に言い聞かせている。以前の自分が音楽に対して持っていた期待より遥かに大きな恩恵を受けながら。芸術やrockの素晴らしいところは幾ら、自分が調子に乗ったところでビクともせずに超然としていて、全てを受け入れるところにあると勝手に思っている。同じように京浜東北線は最後までいつも、ありがとう。

2013年1月10日木曜日

やまとうたは人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける

 例えば、今から自分がプロ野球選手になるという可能性と。これだけ社会がグローバル化していて、人はもちろんモノや情報が流動的になっている中で安定した生活や安定した職を望む現実はどちらが夢物語なんだろう。夢を笑い、へらへらと指を指している奴らの人差し指を折ってやりたい。
Abbas Kiarostami監督の『桜桃の味』という作品の中で語られる話で「ある男が医者に対して身体じゅうを指差して、ここが痛い、あそこが痛いと訴えるのだが。結局、その指していた指自体が折れていた」という話を思い出した。自分はこれからもこの作品を愛し続けるだろうし、特にラスト部分にこの素晴らしい監督の作家性を強く感じる。   

2013年1月9日水曜日

Blue in Green

 自分が好きな作品というのは小説であったり、映画の場合。鑑賞後にストーリーや内容を確りと覚えていないという事が多い。もちろん、再び鑑賞する時にもっと深い部分や細部を認識する事になるのだが。最初は全体に流れるリズムや構造が生む揺らぎに惹きつけられ、漂う感じだろうか。それらには、理屈などを超えた作品に対する「信」を自分に抱かせ。その「信」自体からも多くのモノを感じ、与えられる。その体験は自分にとって日常にある大きな贅沢の一つだ。そういった「信」が何度も作品に自分を向かわせる動機になり、一層の熟読や作者に対しての興味、他の作品に繋がっていく。唯、理屈では無いものを論じる、「超越論」的なモノはあるとおもうし。自分自身考えていかなくてはならないと思う。

2013年1月8日火曜日

Grand Royal

 「他者」の苦しみを理解したいなんておこがましい事は決して言わない。唯、自分の苦しみくらいは理解したいし、素直に受け入れたい。自分が辛かったり、苦しい時にがんばり抜く事は当然、大事な事だが。素直な内面の感情までも否定したりしてしまう必要はないと思う。辛い時、苦しい時こそに自身の感情を受け止め励ましたり、時には同情するような二重の感情を使う事は大切な事だと思う。そんな個人を通してしか「他者」に通ずる路はないのではないか。疲れているせいだからだろうか、つまらない事ばかり書いて申し訳ないです。こういう時にその人の人間性が出るんだと思います。本当にお恥ずかしい。

2013年1月7日月曜日

文化的雪かき

 最近、改めて会話の素晴らしさ、便利さを実感する機会が多い。文章や書面であったり対面しない電話などのコミュニケーション手段を使って物事を説明しようとすると、自分の考えは勿論、相手の考えなどを理解する以前の行為である、想像や想定すらできない事に気が付く。人は無意識に相手の表情はもちろん、態度、雰囲気などありとあらゆる情報を感じ取り、次の発言や対応をしているのだ。大袈裟かもしれないが、日常的に武道の間合いの様なものを計りながら他者と対しているのだろう。自分は無意識に自身の表情や身振り、手振りに助けられ活かして他者とコミュニケーションをしているのと気が付かされる。こんな第六感を使うような状況が他者との関係には常にあり、その関係は常に緊張感がありエキサイティングで楽しいモノであるのも当然である。人間関係の長期的な継続には、ポジティブなモノの捕らえ方が大事だという事も最近、強く感じる。

2013年1月6日日曜日

一年の計は金杯にあり

 風邪気味で口の中に大きな口内炎ができてしまい、食事をする時に不便で困っています。大間鮪の釣り番組を観ながら、鮪もあんなに大きな針を口に引っ掛けられて、さぞ痛かろうと思わず同情してしまいました。
Chris Andersonの『フリー~〈無料〉からお金を生みだす新戦略』を読んでいるが。殊更、頭の固い自分だがお金やビジネスに関する事は本当にずぶいし、固いなあと感じる。古典を読んで見出す新しい価値観も自分の頭や行動を柔軟にしてくれるが、この本の著者のような人や昨今のコンピュータ学者が書いた本を読むと本からの恩恵もあるのだが、それを通り越して、いつの間にか自分が時代錯誤の浦島状態である事に気付かされ呆然とする。まあ、自分はそのような人達の本を読むことに拠って、その知識を自分の仕事にあわよくば活かしたいという甘い考えを抱きながら、馬鹿は馬鹿なりに時代の最後尾をなんとかくっ付いて、行かなくてはならないと考えている。

2013年1月5日土曜日

another sunny day

 久しぶりにスピッツの音楽を聴いたが、自分がほとんどの曲を歌えるのに自分自身びっくりした。高校生の頃にスピッツが好きな友人がいて集中的に聴いた時期があったが、スピッツのノスタルジックなメロディーに乗せて歌われる、草野マサムネの歌詞はとても不思議な詞だ。自分がイメージのままに聴いていた歌詞と、実際の歌詞の間にズレがあるという事。そして、それに気付かされる体験は本当にポップスの魔法そのモノの体験だ思う。Sigmund Freudの『精神分析入門』に書かれている一つの例として「詩人が人間の言い間違いを巧みに利用して、隠されていた真実を表現する。」という様な事があったと思うが。草野がつむぐ歌詞にもそれに似た詞の表現が巧みに使われ、それがまさにスピッツというアーティストの二面性を表している一つの要素になっている。その二面性がもちろん誤解も含めて多くの人に愛される原因になっており、それを正面から受け入れる姿には彼らの音楽的ルーツが影響し、確実に繋がっている何かがあると思う。

2013年1月4日金曜日

You Only Live Once

 Friedrich Christian Anton Langの『月世界の女』を観ながらトーキに拠って、映画が失ったモノについて気取って考えていた。それはおそらく、不自由さが生み出す発想や創意工夫の豊かさなのだろうか。映画に限らず技術が進歩していく事はとても素晴らしい事だ。自分は回顧主義者でも何でもないので、素直にそう言える。本当の意味で「現在」の人間が過去を懐かしむ事はできないのではないだろうか。変な言葉の様だが、「現在」という視点から過去を観ている事に於いて発生する感情が働いているので、もはや当時の事を正しく判断する事などできない。新しい過去に書き換えてしまうのだろう。それは過去の作品などを新しいモノとして受け入れる行為でもあるのだが。それから、自分が人間関係の中で重要視するようになった「他者性」なんかもリアルタイムでその場でしか存在しない感覚、感情だ。それは、緊張であったり、人との相成れない齟齬であったりするが、それこそが他者を他者たらしめているモノなのだ。『映画術』中でAlfred Joseph Hitchcockが語っていた、「確実な地点に戻ってやり直せば良い」という一連の答えもそれに通じるような気がする。それがもたらす作品としての応えは多くの作者、作品がそれを物語っている。巧く行かない、問題、トラブル、スキャンダルこれらの連続こそが「映画」自体なのだろうか。それを映し、観る私達の共犯関係はいつまでも続いていく。

2013年1月3日木曜日

Seven Nation Army

 今日は川崎大師へ初詣に行ってきました。予想していたとはいえ、多くの人で賑わっておりました。自分は神仏に対して疎いというか、信仰心が少ないので。毎年必ず、初詣に行くとは限らないので川崎大師の様な大きな所へ行くのは本当に何年かぶりでした。参道には多くの出店などが出ていて、とても賑やかで小さい頃に初詣やお祭りで感じた高揚感を思い出しました。お酒を飲みながら、飴を切る音が鳴り響く参道を良い感じで歩いて詣りましたが、さすがに今日は風が冷たくて途中で大師様に縋りたくなるほどでした。自分は途中の出店でケバブやおでんなどを食べて大満足。確りと健康の事もお願いしましたし、お守りも購入したので今年の準備は整えられたと思います。帰りに新宿に寄って、スーツを購入したので身も心も心機一転と言ったところかなと思っています。それにしても、スーツを買うのは苦手ですね。そういう男性は多いのではないのでしょうか。デパートなどに行くと、行った途端に店員に声を掛けられて、商品を見る隙も選ぶ時間もありません。おそらく、男性が選びあぐねる事を予想して声を掛けてるのだと思いますが。せっかく、そこそこ高い買い物をするのだから、ゆっくりと自分なりに吟味させて欲しいなと思う、門外漢なのでした。明日こそは念願の寝正月をするつもりです。

2013年1月2日水曜日

ESP

 本日は午前中からこそこそと近所のイオンへお買い物へ行きました。そこで、なでしこジャパンであり、浦和レッズ・レディースの矢野 喬子選手に遭遇。別に何かを話したとかではないのですが、なでしこジャパンも当然イオンに行きます。その後、私はイオン内にあるユニクロで七分袖のTシャツを二枚購入した事を此処に記して於きます。お昼は本当に久しぶりに、吉野家で牛丼を食しました。以前より美味しくなった気がしたのは気のせいでしょうか。午後は渋谷に行きましたが何もせず、何も買う事もなく帰ってきました。自分は一体、正月早々何をしているのでしょうか。明日はもう少しお正月らしい事をします。
 日本独自の調味料である、醤油とか味噌なんかを改めてゆっくりと味わってみると本当に不思議で奥深い味である事に気付かされる。他にも味覚を通して伝わる情報はとても複雑で繊細なモノが多い。味覚は他の感覚以上に複雑で多くの影響を人間に与えているはずだ。ただ、そんな味覚も人工甘味料などでやられちまっているとしたら、日々酷使されている、視覚、聴覚と同様で信用なら無いなんて思うのは大袈裟だろうか。個人的に一番お気に入りであり、信用している五感は嗅覚で、もしあの鼻がツーンとする感覚も含めて嗅覚が失われたら過去や未来に関する事も淋しく、非常に零れ落ちてしまうモノが多いのではないかと思う。音楽などで喚起されて、思い出す過去があったりするが、それに付随して感じる僅かな匂いやツーンとする感覚は理由や具体的な出来事自体までは思い出せないが、その存在を確りと自分に感じさせてくれる。

2013年1月1日火曜日

GOING GOING HOME

 「修正液」の事を書こうと思ったが、男性の射精のメタファーというかなり安易な事くらいしか浮かばない。「修正液」という物自体かなり強引で無理のある物だとは常々思っていたが。消せないモノを消そうとするの物で、不自然なくらいのあの白い液をかける行為はなんだか、とてもおかしな行為だ。ますます、安易なメタファーが頭を過ぎる。どうしても、新しい紙などに書き直す事や消せる道具で書くなどではなく、あえて人は「修正液」で消す事を選ぶのだろう。なんだか、効率だけを考えて思想なんて言えば大げさだが、なんの深い考えもなく発明され、使われる強引な道具の様な気がしてきた。自分が「修正」ではなく「修正液」という言葉を選んだ理由は何だったんだろう。メタファーありきの考えだったのだろうか。それが単なる、欲求不満から来ているのなら馬鹿馬鹿しい。おそらく、男性的な「修正主義」の事を書きたかったのだろうか。とはいえ、「修正液」を発明したのはアメリカの女性だというから、話はなんだかよく解からなくなってしまうのである。新年早々、訳の解からない、レヴェルの低い文章を書いたので、今年のブログのハードルが下がった気がして、それだけは大変おめでたい事だ。