2012年12月31日月曜日

ハローもグッバイもサンキューも言わなくなって

 「あいさつ」の大切さを説かれたところで、子供には高度すぎて解からない事だと思う。おそらく、反抗して「あいさつ」などしないというのが自然で当然の反応だし、正しい行為だ。小津安二郎監督の『お早よう』という作品があるが、この作品も「あいさつ」を巡る物語で、登場人物の子供が親に反抗して「大人たちこそ、無駄なことを言っている。お早う、こんにちは。いい天気ですね。」なんて事を言い。「少しは黙っていろ」と笠智衆が演じる父親に怒られ、どんな事を聞かれても何も答えないという態度ににでるのだが。それが、様々な事件を巻き起こす内容だが。その子供の発言が「あいさつ」の意外な真意を指してしまっているところが面白い。「あいさつ」の本当の大切さはその無意味なところにあるのだと思う。例えば、自己言及のパラドクスなどの例で「私は嘘つきだ」という様なものがあるが。その様な言語のパラドクスの中で「あいさつ」というモノは、例外的なモノなのだ。「私は嘘つきだ」という人の「お早う」は嘘でも真でもない。その人物がどんな人物であっても「あいさつ」というモノは嘘や真の問題からは免れるモノであり、それが「あいさつ」というモノなのだ。一日のはじまりに、真偽や意味性から免れた「あいさつ」に始まり、日常生活の様々な人間関係の中にはストレスやすれ違い、恨みや辛みなども当然あるものだが、一日の終わりにもう一度「あいさつ」で相手と別れるというのは何だか感慨深い行為に思える。日常の習慣になっている行為のパースペクティブに気が付く事は、些細な事かもしれないが、日常に潤いを与えてくれる大切な行為なのかもしれない。おやすみなさい。

2012年12月30日日曜日

I Get Around

 「正論」という言葉にはどういうイメージがあるのだろうか。自分の場合、学生の頃なんかは、「正論」という名の「極論」を振り回し。友人と仲たがいをしたり、女の子を泣かせたりしていた。今考えると本当に恥ずかしい。一般的に考えられる「正論」のイメージも「正論をふりかざす」などの言葉がある様に否定的な使われ方、悪いイメージが強いような気がする。「正論」自体が何らかしらの考え、思想などに固執する様な姿勢があるからだろうか。リベラルな姿勢が好まれる昨今であるけれど、何らかしらの意思表示を知る時には、そのリベラルな姿勢が時に曖昧さや無知や無関心へと転換して他の姿勢に繋がっていってしまうのではないかと自分は思ったりもする。話はずれるかもしれないが、渡辺一夫という人が書いた「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」という評論を学生の頃に読んだ事を思い出した。この文章を読み、考える事は自分の中にある「倫理観」に対しての挑戦であり、同時に自分の中にあるモノを再考する、とても良い機会であった。あの頃と比べて、「他者」と関わる事、話す事、議論する事の意味や意義が大きく変わり。自分にとっての欲するモノや得るモノが違うが、自分の中にあるモノが転換したとしても、変わらず自身の中心にある動かぬ「点」の様なモノであり続けるモノは確実にある。これを軸に自分はどんな姿勢でこれから立ち続けていくのだろうか。

2012年12月29日土曜日

書物の灰燼に抗して

 『人志松本のすべらない話』を観ながら、すべらない話術も凄いと思うけど、話し手を滑らせない聞き役の芸人さんの技量の凄さに楽しみを通り越して勉強させられている。「笑い」は自分をひけらかす為でも、誰かを貶す為でもなくて、みんなを楽しませる為であり、それを共有する為にあるのだという事を一流の芸人さんの芸を観る事によって、もう一度考えさせられた。きっと「笑い」は「ボケ」と「ツッコミ」と「フォロー」に拠って生まれるモノなのだろう。今年も僅かだが、自分も楽しい「笑い」の輪の中に入り多くの人と楽しい時間を過ごしたいと思う。
「そうさ リセで終わりさ 説明できないけど 良くある事さ 彼女遅いな」
「恋してるの?」
「打ち明けていいか?」
「もちろん」
「そうか でも その気はないだろう」
「あるわ」
「君は素直に見える 防御の姿勢だ 
  いいさ  僕にはマドレーヌしかない でも残念だ」
「お生憎さま ひとつ聞きたいの」
「何だい?」
「彼女に頼まれ事よ」
「何を?」
Jean-Luc Godard『男性・女性』より

2012年12月28日金曜日

Passing By

 今日、松井秀喜選手が引退した。彼のプレーがそして、ホームランが観れなくなるのは本当に寂しい。彼の打順にチャンスが回って来るたびに心に呼び起こる感情は、自分自身が野球をしていた頃の感情とシンクロしてとても興奮した。引退の記者会見で「今、自分にかけたい言葉は」と聞かれて。「もう少し良い選手になれたかもね」と答えた姿と言葉が彼の全てを表している気がする。プロ野球選手は多くの人に夢と希望を与えてくれる、ヒーローなのだという事を改めて感じた瞬間でもあった。ありがとう。ヒーローまたいつか。

2012年12月27日木曜日

isonomia

 そのアーティストらしからぬイレギュラーな作品だが、そのアーティストらしさが他の作品以上に、強く感じられる作品というモノがあると思う。その様に感じるのは、自分自身が勝手に持っているイメージやパブリックイメージのせいかもしれないのだが。時には熱心なファンからは、強い批判にさらされたり、アーティスト自身が負の遺産として葬りさってしまったりする事だってよくある話だ。そういう意味でも作品の寿命はアーティストの寿命よりも長く、それは不幸か幸福かどうなのか解からないが作品が長く残り続け、それに触れる事ができる自分達はやはり幸せだ。年月を経た時にイレギュラーな作品も含めて、時代に拠って様々な評価のされ方をするんだろう。
 それにしても、何時か東横線沿線に住んでみたいな。

2012年12月26日水曜日

jet set junta

 他者と同じ「環境」になれない以上は他者を理解する事は絶対的に不可能だ。だからといって、それらに関する思考や議論が機能停止するわけではない。物事の本質は、何時だって絶対的な不可能性の地点から始まる。問題をエンドレスに思考する事、もしくは問題をスライドさせて解決ではなく別の新たな次元や視点を見出し、問題を再定義、再構築する事。それは、強制的なものやアカデミックなモノばかりではなく、もっと緩やかな共有の環。共有空間。そんな「環境」を創り出す事のイメージは噴飯ものなのだろうか。多くの人は真剣に物事を考え、語り合う「環境」を欲しているのではないだろうか。少なくとも自分はその一人だよ。これだってれっきとした「環境問題」だ。

2012年12月25日火曜日

minor change

 年末年始の楽しみの一つに、普段はなかなかテレビで観れない芸人さんのネタを沢山観れる事がある。漫才一つにしても、ボケとツッコミという基本路線からそれぞれの芸人さんが、どの様に逸脱してその中で固有のテンポを出していくかが、それぞれの個性になっていくのだと思う。時にはとんでもなくアクロバティックな掛け合いの中で、冷静にネタを披露していく様はまさに「芸人」の妙で心底楽しみ、驚かされ年末の忙しさを吹き飛ばしてくれ、新年のめでたさに彩を与えてくれる。例えば、品川庄司なんかはピンでの活動やお笑い以外の活動も多いが、やはり漫才が一番面白いと思う。その他の活動もそこから波及している事を再確認させられ、もっとネタを観たいと思うコンビの一つだ。もしかしたら、芸人さんのネタを観る事が楽しみの一つではなく、唯一の楽しみだったりして。今夜はNHK FMのゴスペル特集を聴きながらまったりしています。

2012年12月24日月曜日

Ali Baba et la "Politique des Auteurs"

 宮崎あおいが出演しているearth music&ecologyのCMを観ながら。そういえば、Aki Kaurismäkiも日本の企業CMを撮っていた事を思い出した。映画作品の方は現代に於いて、奇跡ではないかと思われる様なシンプルで詩的でありながら現代人に最も望まれるような独特なリズムを持つ作品。特に『コントラクト・キラー』という作品は僕らのヒーローJean-Pierre Léaudが出演している事は外せない要素だが、掛け値なしで素晴らしい作品だ。何を撮るかも大事だが、どの様に撮るかの優位性を改めて認識させられる作品でもある。

2012年12月23日日曜日

The Queen Is Dead

 先日、苺の匂いが好きかもしれない。とブログに書いたせいなのか、何なのかよく解からないが、苺を無限に切らされる「夢」を見てしまった。蔕を取り、先端から二つに切る作業を十時間くらいやらされた。その大量に切った苺が何に使われるのかは知らされていない。時期的にもおそらく、クリスマスケーキに使われるのだろうとは思うけれど。そんな辛い作業の中で、最も印象に残っているのが。苺の入っているパックに生産者の名前が印されいて、それは消費者に対して生産者の名前を提示する事で安心や安全を提供しているのだが。あまりに大量の苺のパックに書かれた名前を見せられ、なんだか気持ち悪くなってしまい。途中、急いでトイレに駆け込んでしまった。それはあたかも、苺自体に名前があるような錯覚から来たものなのだろうか。それとも、それ自体が錯覚で他の要因からなんだろうか。何にしたって、大量はいけない。程ほどが良いだなんて言わないけど、とりあえず大量は勘弁である。

2012年12月22日土曜日

Go! Go! Heaven

 クリスマスのローストチキンをフライングゲットして晩酌しています。今日はめずらしく、ブログに何を書こうかなと考えながらノロノロと仕事をしていました。あまり考えても特に良い事が浮かぶわけでもなく、漠然と「環境」「正論」「修正液」のトリニティの下で仕事もブログの事もいい加減にしておりました。とりあえず、この三つはそれぞれ別個で近いうちに何か書きたいと思うし。トリニティの下で何か新しくまぬけな文章が書けたら今年の締め、もしくは新年の門出に相応しいかもしれないです。それにしても、セブン&アイ・ホールディングスの商品は何でも凄いし、恐ろしいな。

2012年12月21日金曜日

ひとつよしなに

 今日は夕飯に鍋焼きうどんを食べました。寒いのは嫌いだけど、寒い日に暖かいモノを食べるのは大好きです。そういう人、多いですよね。最近はGreg Egan『祈りの海』を読んでいます。自分も幼い頃は漠然と未来に素晴らしく快適な生活、社会が待っていると思っていた。もちろん、SF的な世界観の事ではあるのだけれど。あの頃から考えると、この作品のようなどちらかといえばネガティブで現実的なSFが面白いというのは、なんだか不思議な感じがする。まあ、作品の質などを考えれば、当然といえばそうなのだが。人間の希望が投影され描かれたSFよりも、それがどんなにネガティブで絶望的であったとしても、それらに強く引かれるのはSFであったり「文学」というジャンルや分野を超えた普遍的な何かを感じるからなのだろうか。それは倫理なのか、それとも他のなんらかしらの力が働いているのだろうか。自分が唯のひねくれ者だという可能性もあるけど。

2012年12月20日木曜日

LV30

 今日は珍しく疲れて、しゃべる気にもなれない日。そんな日にもかかわらずブログは書けちゃうという素晴らしさ。ブログを書き出して約二ヶ月になるけど、今日ほどブログの効用を感じた事はない。唯、「疲れた」と書くだけでもなぜかストレスが軽減した気になる。こんな文章を読まされる側からみればたまったものではないが、たまには許して欲しい。僕達は泣いたり、笑ったり、悪口を言ったりする。そして、そんな自分を含めたみんなを愛おしく思ったりする。このループを巡って純化されるような瞬間が立ち現れる。癒しという言葉が流行った時代があったけど。自分が書く文章の流れに身を任せるのは、無責任でいい加減な行為になってしまうかもしれないが、疲れているからしょうがない。学生の頃はこんな文章を意識して書いていた時があったけど、あの頃は今より疲れていたのか、余裕がありすぎたのか今はもう解からない。

2012年12月19日水曜日

恋する虜

 本日は少し早めの忘年会でした。昨今の居酒屋は質量、値段ともに素晴らしく。更に大人数で行くとまた格安になりますね。素晴らしい企業努力だと思いますが、逆に本当にやっていけるのかと、心配になったりもしますけど。まあ、気心の知れた人と草お笑いをできるというのは本当に幸せで、「あたりまえ体操」についての議論が意外と発展して、色々な感性の人がいる事は本当に楽しく、素晴らしい事だと実感する良い飲み会でした。考え方や嗜好が違くとも、議論や話しの所作やルールが暗黙の中で共有できている人との会話ほど楽しいモノはないなと実感する今宵でした。

2012年12月18日火曜日

god only knows

 最近、指先が皸で荒れすぎて凄く痛いんです。水仕事なんてほとんどしないのに、なぜなんだろうか。クリームとか塗って保湿しているんですがなかなか治らず、手袋でも買おうかなと思ってます。他に欲しい物と言えば、amazonで売っているKindleかな。以前から電子書籍には興味津々だったのですが、特にKindleのお得感は自分にも十分手の届く感じです。もう少し、ソフトである書籍の種類が増えてくれるのと、書籍自体の値段が下がってくれれば文句無しなのですが。それにしても、こういった電子書籍端末の進化も凄いのですが、同時に紙自体の利便性に改めてというか、今更ながら実感させられ感謝しています。新聞なんかは、かなりのサイズに折り畳めますし、文庫本も通勤時の必需品になっています。紙媒体の天下はしばらく続くんでしょうね。紙というか印刷技術の出現はIT技術の出現以上に文化の進歩や衝撃などを人類に齎したのは間違いない事だと思う。まあ、何時の時代もどんな媒体にしても本当に重要なのは中身なのだと信じながら、自戒の意味も同時に込めて書いています。

2012年12月17日月曜日

Night of the Living Dead

 今日はなんだか知らないが休日。選挙の総括などを蒲団の中でむわむわしようと思っていたら。いきなり、越谷のIKEAとレイクタウンに連れて行かれた。広大な土地にこれでもか、という贅沢だかなんだかよく解からないが、凄い店と品の数でした。平日なのに沢山の人がどうしてこんなに買わなくちゃいけないのかと思うくらい、買い物しまくっている姿を見て。日本は今、不景気だという話のはずだったのですが。自分はその様子を観ているだけで満足してしまい、ボケーッとしていたら。知りあいに「何か買いなよ。」と言われたので、レイクタウンにあったTIMEXのお店で一番安くて、一番地味な時計を細々と購入しました。レイクタウンというくらいだから近くに湖があったのだけど、完全にみんなに忘れられているその湖に自分は凄くシンクロしてしまい。勝手に擬人化して湖の声に耳を澄ませていた。それにしても広大なので、時計しか買ってないのに朝から晩まで過ごしてしまった。こういう一日を過ごさない為にも、時計を買ってしまったのかもしれない。

2012年12月16日日曜日

self portrait

 戦時中に作家が何を考え、どの様な文章を書いたか。という事には元々、興味があり。それに対する太宰治や坂口安吾などを対象とした論考はいろいろなところで眼にする。そんな中、手塚治が戦時中にどの様な漫画を描いていたか。という論考を最近読んで、実際にその漫画作品を読んでみたいという思いがずっと頭の片隅にあった。今日、たまたま寄った書店で、『手塚治虫漫画全集未収録作品集』なるものを発見して、購入してしまった。特に有名な「勝利の日まで」という作品は作者特有の記号的なキャラクターとリアルな戦闘機などの対比がやはり印象的だ。更に最後の「本格的な焼夷弾攻撃には四坪に一個の割合で油脂焼夷弾が落下する」という文字だけのコマがあるが。この平坦な一文に至る、作者の葛藤に想いをめぐらせる資格が今の自分にあるかどうか、自分には自信がない。

2012年12月15日土曜日

STAR FRUITS SURF RIDER

 天使が出て来るお話。というか作品のお話です。小沢健二の『天使たちのシーン』という曲を久しぶりに聴いた。とても素晴らしい曲だが、一方で頻繁に聴く曲でもない。この曲には重要なバックボーンがあるらしいのだが、本人も含めて曲が流れる間の時間をかみ締めるように、共有する瞬間は本当に美しいと思う。まあ、またしばらくは聴く事がないのだが、この動揺に近い不安定な気持ちは愛おしくも感じられるし、しばらく余韻を味わいたい。
 もう一つWim Wenders監督の『ベルリン・天使の詩』という作品。タイトルにもあるように、天使が登場する作品なのだが、子供を撮るには子供の視点が必要なように、その「天使」を撮る為には「天使」の視点が必要なのだ。という事を以前酔っ払って、熱弁した恥ずかしい記憶があるので此処ではあまり触れない事にする。自分は宗教などに一般的で俗な考え、知識しか持ち合わせていないのだが、この両作品に出てくる、「天使」を通して自分が「祈り」や「神」について触れようとする身振りを知ったような気がする。

2012年12月14日金曜日

Lost Outside The Tunnel

 沈黙を持て余し、沈黙を塗りつぶしてしまう、埋め尽くしてしまう事が多かったあの頃。今だって以前よりはマシになったけれど、饒舌な花束で埋め尽くしてしまうなんてしょっちゅうだ。その代わりに、どうしても「言葉」で埋められない存在を強く意識させられ、「言葉」自体の使い方や考え方は大きく変わった自覚はある。根気良く丁寧に続ければ、何時かは相手に伝わる。という淡い幻想は遠くに退き。今の自分にあるのは、絶対に重なり合わない自己と他者の違い、ズレこそが自分を他者に向かわせる唯一の意味であり促進力になる。という苦い幻想だけだ。それはもはや自分が窒息してしまわない為の生きる知恵なんだろう。

2012年12月13日木曜日

Penny Lane

 何処からか、苺の匂いがしてきた。苺の匂いがこんなに心を落ち着かせるとは新発見です。個人的な相性とかあるんだろうか。苺のアロマとか売っていたら、試してみようかしら。それで思い出したのがAnimal Collectiveの『Strawberry Jam』というアルバムのジャケット。もちろん、中身の音楽も素晴らしいが。ジャケットのインパクトやメッセージ性は言葉以上に彼ら自身の音楽やそれに伴う哲学みたいなものを簡潔にそして、ディープに表していて大好きなジャケットの一つである。レコードを聴いたり、買うようになってから、以前以上にジャケットから喚起されるイメージから入るアプローチの仕方を知って音楽選択の幅が広がり、その偶然性などを楽しむ事ができるようになった気がする。

2012年12月12日水曜日

No Fun

 今朝、通勤電車にお相撲さんが乗っていた。浴衣姿でこんな寒い日でも暑そうだった。満員電車の中でのお相撲さんはかなりシュールな存在で、朝から夢の世界へ舞い戻った感覚だったぜ。
 小島信夫の『抱擁家族』を読んでいる。この作品も素晴らしい不条理な作品だが、淡々とそして飄々とした語り口、文体がこの作品の背景となっている戦後の日本という国の持つ捩れや複雑さを新しい棚に上げ、浮き上がらせている。私達はその新しさ、鋭さにぞっとし深刻に考え込んでしまうのだが。それはFranz Kafkaの『城』を読んだ時に感じた感覚に似ている。寓話でありながら、どんなモノよりも「社会」がリアルに表現されていて。そのどうにもならなさ、制度や組織などの核心に何時までも辿り着けない絶望感はこれがまさか「文学」かと思わされる程のモノだった。素晴らしい作品はいつも、自分の中に作り上げた安易な枠に、安心し、胡坐をかいている自分に対して恐怖を与え怯えさせてくれる意味で素晴らしいのだと思う。

2012年12月11日火曜日

individual production

 何でも物事を始めるきっかけは必ず他者からであったり、その関係性からでしか起こらないのではないのだろうか。当然と言えば当然だが、イメージとしてはマッチに火が点く時に起こる、摩擦の火花の様な瞬間があり。その初期衝動が人を何かへ向かわせる。もちろん、それだけでは直ぐに燃え尽きてしまうから、その火を直ぐに移し代えていかなくてはならない。より大きなものへと。その作業は全くの個人作業になる場合が多いのだが、その時にはじめの頃の記憶というのは物事を継続していく時に重要に成ってくるのではないだろう。そして、その行為自体に夢中になるか、他者との関係をとるかは、その人が歩む人生の明るさと大きく関係しているのではないか。自分の場合は人間関係より、その火の方が長く燃え続ける場合が多いと思う。それはなんだか、マッチ売りの少女のようだ。
 他者からの批判は往々にして、些細な上に的外れな場合が多いが。やはり自分から的を寄せていく様な行為が必要だし、そのくらいの精度が丁度良いのだと思う。あまりに他者に期待し、依存し過ぎる事に良い事など無いし、程ほどの方が自分の場合は、他者をより信頼できる。
 世の中、不景気で暗い話ばかりだし、毎日寒くて、個人的にも面倒でつらい事ばかりだけれど。だからと言って必ずしも、自分自身が過剰に暗くなったり落ち込んだりはしない術を最近は知るようになった。だからと言って、面倒な事もつらい事も寒いのも不景気も嫌いである事には変わりはない。それは大事な事。

2012年12月10日月曜日

酔いどれ天使

 お酒を飲むと饒舌になるけど、酔うと文章を書くペンも走る。もちろん、内容に関しては後日、検閲が必要になるかもしれないけど。文章を書いている本人も、とても気持ち良くて、新たな楽しみを発見した。以前はお酒を飲みながらする事は草お笑いくらいだったのだが、最近は文章を書いたり、音楽を聴きながらなど。色々な事をつまみとして嗜む事ができるようになった。俗かもしれないが、ウイスキーを飲みながらjazzなんかを聴くのは本当に堪らない。いかにも、格好付けマンよろしく。で恥ずかしいかもしれないが、どうせ独りでやるんだから大丈夫なのである。皆様も俗にまみれて、心地の良い酔いに酔い痴れましょうよ。今宵はKeith Jarrettの『backhand』とラフロイグ10年で楽しみます。もういい加減、いい歳なのだから大人の嗜みみたいな事にもチャレンジしないと、勿体無いです。

2012年12月9日日曜日

自己‐外‐存在

 すぐに「不安」な感情を発動させる「癖」が付いている事には気が付いている。外的な「不安」を内在化することによって解消する行為なのだが。いつの間にか内的な「不安」が過剰に働き過ぎて、現実を直視する事が困難になり。現実をどんどん肥大化させて大きな恐怖を抱く、悪循環のスパイラルに陥る。この「癖」はあまりに日常の行為になりすぎて、「生活」のリズムにすら成っていたのかも知れない。生活のために全ては集約されて行き、エナジーもそこに集中する。
 今日はJean-Luc Godardの『アワーミュージック』を観てしまった。Jean-Luc Godardは映画のありとあらゆる手段を使い、脱臼させ、私達に観る事を要求する。観る者を挑発し、脅迫、暴力、混乱、破壊の総動員に因って。世界の此処ではない何処かに溢れている事を現前させ、私達に訴え要求する。光を此方に向け、私達を照らしている。私達は私達の歌を私達に歌わせる。
 自身のありふれた日常を「普遍化」へと昇華させる行為。それが誰もが持つ「欲望」でありそれを、発動させる装置が世の中を動かしている事は恐ろしくも悩ましい。

2012年12月8日土曜日

あの小説の中で集まろう

 『千と千尋の神隠し』の千尋みたいに自分も訳の解からない場所に行っても、誰からも愛され助けられる様な人間に成れたら良いなと。午前中、布団の中でだらだらしなが妄想していた。先日、ある女性から「シルバーが似合う女性とゴールドが似合う女性」の話をされたが、自分にはいまいちよく解からなかった。これから先も解からなそうです。まあ、贈り物とかには「ハウ」が宿っているので、素晴らしい行為であると同時に怖い事でもあると思い、慎重になってしまったりする。だけど、自分もいつかは誰かにダイヤモンドとか一度で良いから贈ってみたいと思ったり、思わなかったりする。

2012年12月7日金曜日

厳粛な綱渡り

 愚行を愚行と解かっていながら、やらなくてはならない状況に追い込まれる事ほど、悲しい事はないと思う。自ら能動的に行動を起こせる人間は良いが、世の中そういう人間ばかりでは無いし、寧ろそういう人は少ない。そういう状況になるまで何もしなかった奴が悪い。と言われればそれまでなのだが。自分も自身の人生を外圧的なモノに焦らされ、追い込まれて決断させられているのかもしれないと、時にネガティブな気持ちになる。しかし、どんな状況、判断であったとしても自身の決断を受け入れる事はできる訳で。そんな姿勢によって得られる責任こそが、人に「自由」という充実感や達成感を与えてくれるのだろう。本当にこれは心の底から信じているし、これからもそういう風に自分は生きていくんだろう。
 今日、芝公園の前を通った。そこは数年前に横浜まで自転車で行った帰りに熱中症になり倒れた場所だ。そして、近所に住むであろう、外国人の親子に水分を貰い助けて貰った愚行。そうせざるをえないほど追い込まれていた自転車の旅。今考えても完全なる愚行だが、自分にとって決して書き直す事のできない完全なる愚行だ。

2012年12月6日木曜日

replica

 今日はお昼に日高屋のチゲ味噌ラーメンを食しました。去年食べて以来なのですが、辛いスープに麺が絡みつく感じは本当に堪らないです。これから寒くなるにしたがって、頼もしい存在の登場です。みなさまも、一度食べてみてください。時間が無い、暇がないなどとぬかしながら怠惰な「パルプフィクション」を生きている毎日です。本を読みながら考えるポーズだけを決め込んでいます。Auguste Rodinの『考える人』は日本はもちろん世界中にあるんですね。実際は何も考えていなくても、考えるポーズだけでも十分疲れるもんですよ。

2012年12月5日水曜日

Bonapartisme

 ブログに書く内容以上に、タイトルを付ける事に苦労しています。どんな事でも、縛りみたいなモノを作るのは時に楽しさを増やすけど、縛りすぎて窒息してしまっては意味ないですね。
 「歴史」の反復性を考えるとき、今の日本は「戦前」であるという考え方があるらしい。しかも、その「戦争」はいつ起きてもおかしくないと。現在の国内に漂う、閉塞感や右傾化など細かい思想の問題についてはそれぞれの主張や捕らえ方があると思うので、此処では問わないし自分としても括弧に入れておくが。もう少し、大上段な構えになったとしても、大きなタームで「歴史」や「政治」などの見通しを立て考えないといけないのではないかと思う。そうしないと、「歴史」の反復性などもそうだが人類が繰り返し、そして学び取ってきた英知や知恵が活かされないままに、ただ繰り返されるだけならばそれこそ、「喜劇」になってしまうのではないだろうか。それにしても、久しぶりに草お笑いをしに行きたいな。

2012年12月4日火曜日

2+2=5

 宮台真司という人が自身のフィールドワークの体験からストリートキッズが地べたに座りが込む現象を分析して、「視線がグッと下がると「通行人」がスーッと遠ざかって「ただの風景」になり、路上が当たり前の機能的な場所ではなくなって突如「空白の場所」に様変わりする。」という事を書いていた。この文章を読んで、思い出したのは小津安二郎監督のあのローアングルの事である。自分はまだ不勉強な為にこの二つの類似性を結び付けて、論じる事ができそうにないのだが。小津監督が見出したローアングルに拠って、映し出した「風景」とストリートキッズが観ていた「風景」の共通項に、そこから見出される新しい「見通し」があるのではないかと気になった。当たり前の事が当たり前でなくなる瞬間。そこに思想や芸術が生まれる「隙間」が生まれるのではないだろうか。そんな事は、自分の取り越し苦労だと良いのだけれど。

2012年12月3日月曜日

McGuffin

 大学の半ば辺りから、音楽に対する聴き方が少しづつ変わった気がする。それまでは、単純に自分の耳触りの良いメロディーや和音に重きを置いて聴いていたが。徐々にどちらかと言えば、耳障りなノイズや不協和音の様な音を好むようになってきた。My Bloody Valentineの『Loveless』を初めて聴いた時の衝撃は忘れられない。今まで自分が排除していたモノがそこには詰まっていて、それが津波の渦の様に自分を包み込んだ。そのフィードバックノイズに包まれながら嘗て無いほどの安心感、やすらぎに包まれた事を自覚させられざるを得なかった。いつの間にか不協和音が素晴らしい和音に変わっていたのだ。この体験は今でも鮮明に覚えているし、それ以後の自分の好きなモノよりも自分の知らないモノへ重きを置く探求へのシフトチェンジのきっかけになったと思う。

2012年12月2日日曜日

1492年

 本日は部屋の大掃除をしました。掃除はめんどくさいけど、そこに大が付くと気合も入って夢中になり、あれもこれも要らない物を捨てまくってやりました。その空いたスペースに福とかが入ってきてくれると良いのですが。おそらく、新たなイラナイ物に入れ替わるだけになるのでしょう。午後から渋谷にてJCDを観戦。エスポワールシチーから買って惨敗。気持ち良く逃げてる様に観えたけど結果、スタートが良すぎたのかなと思う。帰りにレコード屋で買ったYoung Marble Giants『Colossal Youthを聴きながら早めに布団に入ってモソモソしよう。

2012年12月1日土曜日

伽藍とバザール

 今日は市場の朝市に連れて行かれました。そこで、いわしのつみれ汁を飲んだり、まぐろの解体ショーを観たりして楽しみました。市場なんて滅多に行かないけど、沢山の食材や面白い人が沢山居て何時間居ても飽きない所です。午後はテレビでJリーグを観戦、G大阪と神戸の降格が決まってしまいました。開幕前にこの2チームが降格する事を予想できた人なんていないのではないでしょうか。本当に恐ろしい世の中です。少しの歯車の狂いが最後まで修正できず最悪の結果に。最終的にはまさか降格しないだろう。という慢心が後押しをした形になった様な気がします。どんなに良い選手が揃っていても、まずは組織があって始めて、それを超える個の力が際立つようになるんだと思います。もちろん、クラブ組織全体の運営に関する問題も含めてです。そして、最後まで自分達の形にこだわり戦い続けた2チームの降格は非常に考えさせられるし、ギリギリで残留したチームの現実主義的な戦い方から様々な厳しさを学ばせて貰いました。