2012年11月30日金曜日

日常に生きる少女

 Michael Winterbottom監督のdvd『キラー・インサイド・ミー』を観てしまった。鑑賞後に胸糞悪くなる、後味が堪らない素晴らしい作品。人を感動させ一種のカタルシス状態にさせるのも、素晴らしい技量の一つだと思うが。この作品の様に最後の最後に人間の中にあり、常に残るどろどろとした怨念の様な得体のしれない何ものかが噴出して、それが私達の喉もと辺りにべっとりと絡みつく様な作品は本当にムカつく。その得体のしれないモノは幾ら飲み込んでも、私達の前に立ち現れるのだ。そして、今まで自分の目の前にあった視点が、いつの間にか自分の背後に在る事に気付きぞっとするのである。とっくの昔に映画は3Dなんか軽々と超えていたんだな。
 週末は井上真央主演の『綱引いちゃった』を観に行こうかなあ。

2012年11月29日木曜日

Un Certain Regard

 世の中に楽な仕事なんて一つもない。観るのと実際にやるのでは大違いで、特に単純な作業を根気強くなさっている方や肉体労働の方など本当に頭が下がる。世の中には他人から見れば、とても×2な事でもいとも簡単にできるなんて事は良くある話ではあるけれど。勿論、誰も辛い仕事を好きでやっている訳ではないと思うが。そして、今更な事だが他者の仕事に感謝したり、尊敬したりする事は大事ですらなく自然にあらわれてくる感情なはずだが。どこかで他人に対して余所見を向けられる心の余裕を生活の何処かに残しておきたい。
夏目漱石『こころ』のK
村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』の五反田君
黒澤清 『トウキョウソナタ』の黒須
今日はこの三人の事をずっと考えていた。何を?別に何も考えていなかったけどさ。ずっと想っていたのか?

2012年11月28日水曜日

心象風景

 大学で受けた国木田独歩の授業は、今でも物事の見通しを考えたりする時に役に立っていて、特に風景と内面が転倒する様は人間の歴史や文化の様々な所で繰り返されている。そこにねじれなどが加わってより複雑な事象になる場合が多いのだが、その複雑さを一つずつ解いていくには、この概念を理解していなくては決して前には進んでいけない。今、自分が立っている場所や立ち位置を明確にする為、思考の土台を確認して踏ん張る時に常に大切な所存になっている。そして、その授業と自分が所属していたゼミは同じ先生である。自分は先生の前で自分の好きな様に話し、振舞っていて甚だ失礼な奴なのだが。授業はもちろんだが先生が創り出す場所、その場の雰囲気に自分は本当に救われてきたし、今でも感謝している。

2012年11月27日火曜日

無題2.0

 うわー!!恥ずかしい。調子に乗ってブログに文章を書き散らかしていたら、お前は何時の時代の人間だよ。という感じで「革新ポーズで心情保守」な文章を散らかしている自分を発見してしまった。まったくだせーよ。
 自身が纏うありとあらゆるモノが形式や反復の数々でうんざり、熱くなり脱ぎ捨てるけど。真っ裸だかだらけの群集の中で果たして誰が「王様は裸だ」と叫ぶ事ができるのだろうか。子供なら尚更無理なんだろう。子供はいつも引っ込み思案で流されやすく、旋毛ばかりでかいから。自分もそういう子供だったからよく解かります。そして、そんな等身大の子供時代がどんなに大切なのかも、今なら本当によく解かる。子供の時に子供×2しないと、大人になった時に大人×2できないのだ。その大人×2とは幾ら自分の状況が絶望的であり、うんざりする様な言葉や文章しか吐き出せなくても、なんとかかんとか巌にしがみ付き少しでも上に這い登っていく愚弄を晒す事なのだろうか。
 自分は「馬鹿」だからと開き直ると「馬鹿」は際限なく「馬鹿」になっていく怖さを自分は良く知っている。だから、日々少しでもマシになろうと恥ずかしく、手遅れかもしれない作業を続けているのです。お願い、この「自由」を誰も奪わないで下さい。

2012年11月26日月曜日

成熟と喪失

 お約束的な「笑い」に対して反応するのが段々しんどくなってきた。子供の頃は大人達が住むお約束の世界に憧れ、見よう見まねで参加していたが。実際の社会に出て、うんざりするくらいのお約束の連続にこれ以上体が受け付けなくなったんだろうか。散々、学校や友人同士の中でベタな内輪ネタなんかもやりまくっていたのに、なんか本当にさみしい。ただ、少しは大人になってベタなネタのメタを探っても良い時期なのかもしれない。
今夜も反省の為の反省、無限の総括。
 ブログや日記なんかは夜に書くより朝書いた方が良いなんて言う噂を聞いた。古典にある日記文学なんかも、朝早くに書かれていたらしい。だけど、朝は何かとゴチョゴチョ忙しいのであります。

2012年11月25日日曜日

終わりの季節

 いろいろ読みたい本があるのだけど、なかなか読めないでいる。量もこなしたいし、内容も深く理解して自分のものにしたいと思っているけれど、これがなかなか。唯一の救いは両方とも以前よりは、できるようになっているという事だけ。もちろん、比べる相手は過去の自分であるのだけれど。
最近はネット関連の本を読んで、少しでも進歩著しいインターネット世界の事を理解しようと励んでいます。技術的な事にも、興味があるけれど。それ以上にネット世界での「自由」や「コミュニケーション」などの人文的なアプローチにより興味がいくのは自分の地頭に起因するだろうか。
 それにしても、来月には選挙があるわけで。日本の選挙でインターネットはどのように使われていくのだろう。アメリカの大統領選挙なんかでは、もはや無くてはならないモノになっているが、日本ではまだまだ無くてもやっていけそうな気配。そんな状況の中で有権者はどのように溢れかえる情報を選別し、決断し投票していくのだろう。本当に難しく困難な時代です。

2012年11月24日土曜日

24 Hour Party People

 気付いたら映画の話ばかり、これじゃあ、まるでシネフィルのブログだね。
今日はバッティングセンターに行ったのだが、空振りしまくりでした。頭の中のイメージスイングと実際のスイングの差が大きすぎて修正する事すら不可能になってしまっていた。月日の流れとは怖いもので、これでもあまり空振りの少ない選手だったんですけど。以前、イチロー選手が自身のスランプについて語っていた番組で、「自分の打てると感じるゾーンが大きくなりすぎて、スランプになる。」みたいな事を言っていた。感覚が研ぎ澄まされてゆき打てるゾーンが広がっていくのだが、物理的な腕の長さやバットの届く範囲にはどうしても限界があり、そのバランスがくずれスランプに陥るという事なんだろう。イチロー選手は自分のプレーや細かな感覚までも論理的に言葉で説明する事が出来る偉大な人である。それは日々の肉体的な鍛錬は勿論だけれど、それ以上に日々の様々な緻密なデータの分析や野球に対する論理的思考の積み重ねの表れなのだと思う。自分はこのイチロー選手の話を聴いて、Immanuel Kantの『純粋理性批判』を想起させられた。今日、自分はまったくレベルが低くて申し訳ないのだが、擬似イチロー体験をしたのである。

2012年11月23日金曜日

The past is never dead. It’s not even past.

 今日は早稲田松竹でWoody Allenの『それでも恋するバルセロナ』と『ミッドナイト・イン・パリ』の二本立てを鑑賞しました。題名にある様に両作ともバルセロナとパリという都市を訪れた人物に起こる、一時の夢物語が展開される。Woody Allenと言えばニューヨークという都市が代名詞でもあるが。最近では、ロンドン、パリ、バルセロナなどヨーロッパを舞台にした作品も多い。どの都市にもそれぞれの色合いが在り、そこにWoody Allenの色が重なり、新しい場所を創りだす。その場所(都市)は私達人間を作り上げ、時に結びつけ、引き離す出会いと別れの舞台になる。ただそこで共通するのは、束の間の恋、不毛な愛の繰り返しであるのだが。彼は常にさまざまな場所、時間を自由に横断し、作品の中に一種の磁場を創り出し再び結び付けるのである。同時に観客である私達は束の間の、映画の世界へ旅に出かけ漂い溺れ救い出される。饒舌の向こう側にある景色は、いつも凡庸で退屈な素晴らしい世界なのだ。

2012年11月22日木曜日

Born To Be Pooh

 裏表だけでは到底、足りないわけで。人との関係性の数だけ自己というものは存在するわけだから。それこそ、その無限の行為自体にうんざりし、自己を摩滅させていく感覚に陥る可能性もある。一方、無限に自分の側面を増殖させていき、現れたその球体は関係性の中で活発に弾み膨らむ。
他にも、裏であり表が自分の中では外側に対応しているつもりが、社会や共同体の内側で、プライベートやパブリックなものとの混同、混乱なんという事態も。更にその外側にメタな次元が立ち現れ、その連続に私達は立ち尽くす。しかし、その体験は人を無限の連続性から解放する道でもあり、新たな次元のフロンティアに導いてくれる手続きでもある。そこで統合された唯一の個は何を考え想い、行動するのだろうか。
 自分はおじさんの若輩者だから、「恋愛」は人を成長させるなんて本気で思ってたけど。そんなのは錯覚で人はそう簡単に変わらない。そして、それはとても良い事だという事にも今更ながら気がついた。そうそう、魔法なんてものは無いけど、確りとしたタネや仕掛けがあり。自分はそっちの方に興味があり、魅せられるように成ったのである。

2012年11月21日水曜日

you know I cherish you my love

 今日は久しぶりに、赤羽の「いこい」という立ち飲み屋にお邪魔しました。相変わらずディープな感じで良い感じに、酔わせてもらいました。こういう場所は本当に大事にしたい。
 Theo Angelopoulosの『旅芸人の記録』を観ながら、この作家はもうこの世に居ないのだな。と思うと愕然とする。勿論、ニュースなどでリアルタイムで知っていたが、作品の重厚さや歴史という概念を想起させるその存在感に改めてその喪失感の大きさを実感する。最後にごめんなさい。ローラ好きです。可愛過ぎです。

2012年11月20日火曜日

奪人称

 今朝は路上もんじゃを二つも発見した。年末に向かうにつれて増えていくんだろうな。皆さんもお体ご自愛ください。
 自分の内面に対峙しても、一番の敵である己の不安を安易に外側へ投影し、プロレスに勤しむ日々。内面性の欺瞞を暴くことが物事の停滞や閉塞を突破する唯一の扉である。押しても駄目なら引いてみなそれで駄目なら壊してしまえ。
 ある方がニューヨークで柄谷行人氏に「もう、「文芸評論」はしないんですか?」と聴くと。「自分のやっている事の方がよっぽど「文学」じゃないか」と答えたそうな。自分はこの話を聴いて、震えました。濡れました、鼻の頭が。「文学」や作品を自分の眼の前から退けたとしても、そこに残る何モノかが在る。いつの間にか「文学」から感染した、その視点、思考そして、脱臼、その脱線の作法が。物事に新しい可能性と視差を与えるのではないだろうか。本当に柄谷氏は安易に特定の場所に安泰してしまう「安心な僕ら」に、常に厳しくそれ以上に心強い新たな視差を与えてくれ、思索の世界へ。そして、その外へ外への「遠心力」を自分に与えてくれる。

2012年11月19日月曜日

再起動

 人生で「一人で良いから」心の底から通じ合える人に出会う事は、その人生をかけても良いくらいの意味を持っていると思う。つまり、自分の人生と等価なモノ。その一人は、両親でも友人でも恩師でも勿論、恋人でも良いわけで。そして、「一人で良いから」というのは決して、消極的、ネガティブな意味ではなく、人間の存在を最大限に肯定した姿勢の自分なりの表れだと思う。その一人にさえ出会えていれば、世の中の大きな流れみたいなものに対峙した時にも正気を保っていられるし。なんとか立ち、進んで行けるんだと思う。時々、その人を思い出すことがある。その人が大げさに言っていた「同志」なんて言葉を思い出す。自分の人生は本当にろくでもない人生だから、過去を振り返ったり思い出す事は嫌だし、苦手なんだけど。唯一、その人の事は思い出すし、その人の為に自分の過去があると言っても大げさではない。そして、その過去が今の自分、将来とのバランスをとってくれている様な気がする。
その人と自分の関係はどの様なモノだったのだろうか。
相手は自分の事をどの様に思っているだろうか。
その人は今、何をしているのだろうか。
その様な問は本当に些細な問題にすぎないし、時間、内容やその意味。それらを超越した出会いが私達の間には確実にあったのだ。そして、同時に今、此処には存在しない事実でもある。それは本当になんとも言えない。決して悪いことでもないし、少なくとも何か自分が今までの人生で学び超越論的な何かしらを捕まえたとすれば、この行為を経なくては無かっただろうと思う。
Фёдор Миха́йлович Достое́вскийの『カラマーゾフの兄弟』の中にこのような人間の関係性、出会いを語った部分があった様な記憶がある。この曖昧な記憶をたどる意味でも再読しようと思う。
自分の文章の曖昧さは記憶の曖昧さでも書いている事柄の曖昧さでも無いことはとても悲しいことだ。

2012年11月18日日曜日

noblesse oblige

 今日は久しぶりに銀座に行ってきた。まず、ウインズ銀座に行きマイルCSを観戦。7 9 11 13 17のboxで勝負も惨敗。サダムパテックは好きな馬だけに買えなかった自分にガッカリする。ただ、念願のG1制覇サダムパテックと2年ぶりG1勝利の武豊騎手の姿に感動する事は忘れない。
その後、紹介された場所で散髪。技術もさることながら、久しぶりにマニュアルを超えたさりげない気配り、素晴らしい接客に出会い感動。帰りは独り、銀ブラ&八重洲地下街を探索。なんか以前より、銀座や東京駅付近がとても落ち着くし、しっくりくる感じ。普段は、新宿や渋谷方面を逍遥する事が多いのだが、これからはこちら方面に足を伸ばす機会をもっと増やそうと思いました。

2012年11月17日土曜日

super flat

 この2、3日で一気に気温も下がり、もう冬の季節に入っていきそうな気配で、おでんとか、ごま豆乳鍋など温かい鍋物なんかがたまらない時期に突入ですね。
  このブログも書き始めて、半月くらい経ちます。何の為に書いているか。問われれば、何かモノを書いて表現したいという単純な欲望から書き始めたわけです。誰に向けて書いているかは、特定の誰でもないのだけれど。だからこそ、不特定な無限の人達に書いているつもりでいる。それはブログというインターネットの媒体で書いていることの必然的な意味でもあると思う。イメージとしては百頭の羊より一頭の羊を救う行為に似た。一頭一頭、一人一人はかけがえのないという取替えのきかない話。このイメージを大切にして書いていきたい。これは本当に宗教の根源的な噺になるのだろう。自分は信仰に対して俗ぽい考えしかないが、「考える事は愛する掟、感じることはもっと」それは、祈り、信仰に繋がる事だと楽観視している。そして、グローバルな社会、それを繋ぐインターネット社会である一方、宗教の重要性、意味合いが重要視されている世界が広がっている事も紛れも無い事実である。これらは、当然迷い、不安、争いでもあるが。希望、可能性、繋がりが広がっている証拠なんだろう。これらをどの様に選択していくかは、何時の時代も自分達一人一人になるんだろうし。大げさだがその実感、真っ只中に居たい事もあり、ブログで書き出したのかもしれない。誰でもネットを使って、クリエイティブな表現ができる素晴らしい昨今。一方でプライバシーの問題、著作権、軽犯罪が何かと事件なんかにもなっている。簡単に言えば「やるか逃げるか」なのであろうか。自分の書く戯言も何時かは燃やされて、灰になる日が来るのだろうか。

2012年11月16日金曜日

1.21 jigowatt

 久しぶりに『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2』を観てしまった。本当に興奮して「誰にも腰抜けなんて言わせないぞ。」というマーティ・マクフライの台詞を独りで連呼し、周りの人達に顰蹙をかった。小さい頃の自分もこの作品のシーン同様に友達に腰抜け呼ばわりされて、すべり台からジャンプし骨折した事を思い出した。自分は今も昔もマーティきどりよろしくなのだが。映画に出てくる、魅力的な道具の数々。デロリアン、ホバーボードなど・・・。
だけど、今も昔も一番欲しいのはスポーツ年鑑であるという自分は完全にビフ・タネン的人間なのである。

2012年11月15日木曜日

Looking Awry

 分解して分析するのは、その人の自由だけど。人前で披露する時にはある程度整えてから出すべきだし、切り刻んだものを縫合することは礼儀とゆうか一種の倫理だと思う。遺伝子とか細胞、DNAなんてところまで幾らでもいける今。例えば、「椅子」を分解して、脚の部分やもっと木という素材、もっともっと繊維、細胞なんて具合にいっても。もはやそれは「椅子」とは呼べない。以前、相手の好き嫌いを無限に論って別けて、比べ量る様なうんざりする事を無意識にしていた時期があった。だけど、そんな事は本当に最低でなんか肉体的にも自分が駄目になり、拒絶反応が自分自身に帰ってくるようなイメージの記憶がある。無限小「0 ではない、かつ限りなく 0 に近い微小な量」という理想概念。非ユークリッド幾何学だって、最終的には「神」が顔を出すんですね。

2012年11月14日水曜日

Je pense, donc je suis

 青山真治監督の映画『東京公園』の中で、榮倉奈々が「私にとってゾンビ映画こそが宗教映画だったのです。」そのことをGeorge A Romero先生に導かれたと言っていたが。自分は「私にとって宗教映画こそが娯楽映画だったのです。」そのことをIngmar Bergman先生に導かれたのです。
 昨日の夜、なかなか寝つけなかったので布団の中でプレステ用コントローラーのアナログスティック部分をコリコリしていたらいつの間にか眠ってしまった。

2012年11月13日火曜日

うなだれる愛

 毎日、満員電車にゆられ、oasisの曲を聴きながら荒川を渡る。もちろん、大きな橋を。はっきりいってうんざりする。この単調で平穏な、いとおしい毎日に対してべっとり手垢のついた視点、感慨しか浮かばない事に対するいらだち。安易に抽象的な比喩に逃げたりする自分。むずかしい話はやめよう、政治や哲学的な事を考えたいなら、U2やradioheadを聴けば良いんだから。
 そして、夜はradioheadを聴きながら。人間は欲深いから自分だけ得をしたい、楽をしたい。当然、成功したい。それは決して悪いことではない。しかし、同時に慈悲の「欲」みたいなものが、表裏としてあるのも事実だ。他者が苦しんでいたり、助けを求めていたら哀れみの念や助けてあげたいという思いが自然に出る。これを「欲」という言い方をして良いか解からないが、震災後の多くの人達の行動などを見ると何か論理的なものや打算などを超えた、根源的なものに突き動かされているようなモノを感じた。この二つの面の「欲」を押さえつけるような社会、仕組みはもう一度再考しなくてはいけないのではないだろうか。他にも政治や官僚の制度、仕組みは私達以上に多くの政治家、多くの官僚の為にあるもので、彼らの両欲面が達成できる様に改革していくべきなのではないだろうか。こんな考え方は楽観的過ぎるだろうか。

2012年11月12日月曜日

teenage kicks can't die

 「時と共に友人も代わり、まるでレストランの客の様に入れ替わっていった。」何時までも変わらずに表現し続ける人がいる、当然周りの人間がぐるぐる廻り、変わって行けば良いわけだが。自分は相変わらず一番死んでほしい、殺さなくてはならないモノを何時までも葬り去ることが出来ないでいるのかもしれない。

2012年11月11日日曜日

Japan,the ambiguous,and myself

 ある小説家が「もともと「小説」というのはめんどくさい事を書いてきたが、最近はめんどくさい事を「小説」が書かなくならなくなった様な気がする。」と言っていた。確かにたしかに、「小説」がめんどくさいモノかどうかまでは解からないが。自分は結構めんどくさい奴であり。めんどくさい事が好きなので、演繹的に「小説」もめんどくさいモノなのだろう。その「小説」がめんどくさい事を書かなくなった事は別に良い事でも悪い事でもなくて。画一的なモノの観かた、一方向的な物事の進み、発展、展開みたいなパースペクティブを拒むところが「小説」にはもともと在ったんじゃないだろうか。それとも、扱う素材自体のめんどくささの事なのだろうか。「私小説」的なめんどくささは今も昔もあふれているが、それは意外とめんどくさい事ではないのかもしれない。そしたら、元々めんどくさい事を書いていた「小説」なんてごく一部でその量は今も昔も同じくらいだろう。世の中と「小説」の関係からめんどくさい感みたいなモノの感覚というものは変わる気もする。世の中からありとあらゆるめんどくさいモノが無くなったらいったいどうなるのだろう。
少なくとも、蟹を食べることはめんどくさいけど蟹は美味いし。
レコードをセットして針をおくこともめんどくさいけど良い味の音がする。
つまり、そんな単純なめんどくさい事を言いたいのではないという事。
もはや、今の世の中から「小説」や「芸術」がなくなったら、いっさいめんどくさいモノが無い世界だったりするんじゃないだろうか。今日に限らず、此処のブログは結構めんどくさい事が書かれる事が多いのだが。

2012年11月10日土曜日

from all the unborn chicken voices in my head

 今日は『オードリーのANN』について・・・。ニッポン放送で毎週土曜深夜25:00~27:00放送している番組。もちのろん、オードリーの春日と若林の二人による番組。この番組を聴くまでは恥ずかしながら、自分のオードリーに対する認識度は世間レベル以下だったと思う。今でも、オードリーはテレビの印象よりANNの印象が強いので世間一般のイメージとは大きなズレがある気がするのだが。ラジオでは多くの芸人さんがテレビよりも自由度が高い中で伸び伸びと自分達らしさを遺憾なく発揮している事が多い。しかし、オードリーはその自由度の使い方というか、テレビでの彼らと違いラジオでの彼らは明らかに何か異質で分裂した存在、テレビとラジオという単純に比較しがちなモノを通り越して、大変な事になっているのである。Jean-Luc Godardは『映画史』という作品であたかも、鏡の前に鏡を置くように映画の前に映画を置き、万華鏡の様な観るものを幻惑しながらも、今だかつて誰もが観る事がなかった様な新真実を現前させて魅せた。大げさな話かもしれないが、オードリーの二人はテレビの前にラジオを対面させその電波のぶつかり、ノイズの中で戯れ。僕達にまったく新しい「笑い」という常に誰の味方でもなく何者にも寄生しないという本来の「笑い」の倫理を体現して僕達に「勇気」というお笑い種すら想起させてくれる。そして、何の因果か、私の大好きな『エレ片のコント太郎』と『オードリーのANN』は同じ曜日、同じ時間の放送なのである。

好きな食べ物。
1、グリーン豆 春日井製菓
2、ツナとタイカレー いなば食品
3、流水麺 シマダヤ
いつもありがとう、安くて美味しい僕らの味方。

2012年11月9日金曜日

Tritsch Tratsch

 自分に全くない、考えられない他人の嫌なところは全然気にならないし、勝手にしやがれだけど。つい最近まで自分が持っていた嫌なところを他人にさらされるともう、我慢できない。これは自己愛の裏返しなのか。みんな自分が大好きで、同時に大嫌いなのだ。そんなところをほじくり返すところが、私のメタ嫌なところです。本日の収穫なり。

2012年11月8日木曜日

題名は遅れてやって来る

 François Truffautが「世の中と折り合いがつかずに辛い歳月を送った10代の時、Jean Renoirの『ゲームの規則』を何十回となく観て観る度に力をもらった。」という。自分も多くの映画ファンと同じように、François Truffautの映画から「映画の世界でしか生きられない人間もいるのだ」という現実世界からは知りえることのできない、紛れもない現実の一部分を強烈に垣間見ることになる。彼の映画のありとあらゆるもの、はみだした全てのものから力をもらった。自分にもいつか「世の中と折り合いがつかずに辛い歳月を送った20代の時、François Truffautの『夜霧の恋人たち』を何十回となく観て観る度に力をもらった。」と言える日が来るのだろうか。

こんにちは。元気ですか?
去年の11月はあまり好くなかったですね。
新しい事に挑戦する時は誰でも大変で、怖いものです。
それでも、新しい事への「欲」は抑えられないと思うので、
ドンドン挑戦して行きましょう。
もう失うモノはないと思います。
これからは自分の好きなように考え、しゃべり、動いて生きましょう。
その時、また過去を笑える余裕が在れば良いですね。
去年の11月8日に何があったか覚えていません。
それは良いことです。今の11月8日を大切にして下さい。

2012年11月7日水曜日

思想の煮物

 しれっと、英語での題名は断念したのであります。
今日、お昼に飯田橋名物の380円弁当をむわむわ食していると久しぶりにマクドナルドが食べたくなってしまった。そのことを、ある人に話すと「ご飯食べながら他のご飯食べたくなるなんて、きもいですね。」と言われた。
なんか、育ちの悪さが出たのか?この間、外食先で食事し終った後にメニュー表を見る事も注意されたし。世の中には変な事をする人も多いけど、同じくらい変な事を気にする人も多いのです。

2012年11月6日火曜日

夢の夢の夢の夢

お小遣い、うまく使ってる?
全身2万円以下でオシャレできないと、オリーブ少女とはいえません。
外国のおしゃれなインテリアの本を真似て、安く、素敵に
お小遣い帳をつけるのが、愉しい遊び
1着の服を5通りに着られたら理想的
安くてカラフルな無印文房具
おもしろスーパーマーケットで、買い物上手のレッスン
友だちといっしょに、問屋街でまとめ買い作戦
わたしが推せんしたい、安くて、いい物、いいお店
ひとのお小遣い帳、覗いてみよう
ファストフーズで減量(ダイエット)してみない?
汽車に揺られて、おばあちゃんの家に着きました。
オリーブ少女が好きになります、美容室はどこ?
雑誌Olive(オリーブ)No.38 84年2月3日号より
 
 「アムステルダムでは老人が大きな石を小さく切り刻んでいる。」
社会の事を考えると。まず自分の事を棚上げしなくてはならない部分があるけど。それを社会で実行しようとしたら、自分の事を棚おろししなくてはならない。誰も個人的にはそんな事を望んでいなくても、人は何らかしらの組織の一員として属しているから。
こんなに建て込んでる世の中で根底を見直すなんてできるんだろうか。
できるとすれば。やはり、個人が足元をを見直す事からなんだけど・・・。
個人と社会は対立軸ではなくて、社会は個人一人ひとりが構成しているという事を認識する事はとても大事で、大切な希望でもある。
私は呪文の様に唱え続ける
理性からだんだん遠くなっていく
春が待ち遠しくなる・・・

2012年11月5日月曜日

Nowhere you can be that isn't where you're meant to be

 最近、お気に入りであり個人的に頻繁に眼にする言葉、単語。
Literacy リテラシー
Populism ポピュリズム
Architecture アーキテクチャ
Opportunity オポチュニティ
どれも意味は別として、響きがかわいいところがお気に入り。
カタカナ用語や難しい英語で、物事を説明される事に抵抗がある人もいるみたいだけど自分は昔からこの手の言葉、用語は盲目的に好きで、事あるごとにメモったり意味を調べたりしている。だけど、当世風というかリアルタイムで話題にされ、問題にされている周辺で使われている言葉だから表面的な興味本位だけでは駄目かもしれないが、どこか流行りモノ的なところから入っていってもあながち間違いではないのかもしれない。流行言葉なんかを否定する人はさすがに最近はいないかもしれないけど、言語は変化しなくては死んでしまうから。言葉の生もの的なところ乾物的なところの両側面を意識するべきかもしれない。
他にかわいいお気に入りカタカナ用語あったら、教えてください。

2012年11月4日日曜日

Chance is buried just below the blinding snow

 今日は、女子サッカーの試合を観に行ってきた。今更な話になるけど、澤穂希選手は本当にすごい選手だなと。生で観たこともあり、改めて強く思わされた。まあ、何が凄いかと言えば、試合通してピッチ上でボールに対する反応が、常に一番早いというところ。代表の佐々木監督が沢選手をボランチで起用したことは有名で。その理由にボール奪取能力の高さをあげていたが、本当にそのとおりだった。サッカーというスポーツを表す時に、「ボール狩り」という捉え方があると思うが。組織的に網を張り、連動してあるタイミングでプレスをかけて、ボールを奪取するのだけど、ボールは常に人間より早いので、少しの網目のほころびがあればそこを通されてしまう。今日は試合全体を通して、中盤の底に位置した沢選手がことごとくそのほころびを塞ぎ回っていた。本当にそのプレイスタイルはエレガントで慎ましく、献身的な。「なでしこ」という言葉は本当に彼女にぴったりの言葉だなと思わされた。両チームともアグレッシブな好ゲームだったからこそ、彼女の繊細な数々の能力、プレイが浮かび上がってきた試合後の感想だった。どの分野でもトップランナーはその姿だけで気高く、美しいのには不思議な必然性がある。

2012年11月3日土曜日

I know I ask perfection of A quite imperfect world

 小説を読んでいて、「これはまるで自分の事を言っているかの様だ。」とか登場人物から「これはまさしく、自分の事だ。」なんて事を思わせられる時がある・・・。作者がある「人間」を創り出し、提示して読者にそう喚起させる。
その様な感覚は、一般的な読書体験に対するイメージとでも言えば良いのだろうか。伝統的な「私小説」の形であり、私的なものが普遍的なモノへ昇華する様。自分にとってはこの感情移入の様な感覚を読書体験から感じることは今までほとんどなかった。
作品と自分との間の距離に対する意識というものは各々あると思うが、この微妙な距離感。センシティブな感覚は時に、作品やそれを読む自分自身以上に気になり、重要な問題になると思う。そして、それは一種の視点の問題となってゆき、何時か自分の眼の前に置かれた文学や芸術という補助的なものが取り払われたとしても、その視点の存在に気付き始める時が確実にやってくる。ただ、そこで現実に見出されるモノは本当にありふれた、誰にとっても特別なモノではなく日常的で生活的なありふれた風景の新しい見え方。
 話が少しスライドしていってしまったが、最近自分が強く感情移入して。もう共感、作品内の人物に強く共鳴してしまう、これははじめてに近い体験で気付いた快感なのだが・・・。そして、その作品は自分としても意外な作家の作品であった。それは綿矢りさという作家の『かわいそうだね?』という作品。
作品内のユーモアの数々。そして、チョット巧い具合に保たれた書き手の距離感。内容もちろんだが、この距離の取り方、この所存が自分に様々なポジティブな力をあたえてくれた。一言で言えばこの作品に恋しちゃったのであり。一目ぼれです。

2012年11月2日金曜日

We get older every year But you don't change or I don't notice you're changing

 自分は勝手に「夢」は最終的に叶うモノだと勘違いしていたが、当然、人生の途中で叶えられてしまう「夢」もある。そして、その「夢」から覚めた時に現れる「現実」がしっかり語られる事は少ないような気がする。漠然と「夢」から覚めてしまい現実に戻されるイメージ。悪夢から目覚め、救われたイメージ。「夢」はそれぞれで善悪が分断されているのだろうか。自分が観たそこそこ長い「夢」は善と悪だけでなく、様々なモノが混沌と混在していた。それは何に似てるかと聞かれれば、「現実」としか答えられない複雑さ。「夢」のイメージ?「夢」は現実の場にある。正しくは「現実」の場にある夢もあるという事。もはや、自分は「夢」と「現実」の区別も正しく判別する事ができない。「夢」の話をしていると今この次元がどこの階なのか解からなくなってしまう。とりあえず、今自分がいる場所。それは「夢」なのか「現実」なのかは別にしても、今の自分が強烈に実感しているのは「目覚め」の感覚である。実はその感覚を頼りに、手探りでこの文章を書いている。おかしな言い方になるけど、今は目覚めた自分がその眼で観て、感じて、どの様に行動するかが自分自身の一番の「夢」になっている。文章の最初の部分と最後の部分では、「夢」という単語自体の意味が生き物みたいに変わっている。これが、善い事なのか?何なのかはよく解からないまま書いている。文章を書いている人間があいまいなままに何かを書くことは、責任放棄であり、はずかしい行為なのかもしれないが、今は自分のなすがままにさせてください。

2012年11月1日木曜日

Tell me, how do I feel Tell me now, How do I feel

 「障害はその人自身に在るのではなく、私達を取り囲む社会の側にある。」という事らしい。それについて、別に意見があるとかそういうわけではなくて、「障害者」という言葉はそいう現実の事象であり、転倒を巧く表しているという意味では大切な言葉なのかなと漠然と考えていた。
様々な問題。それは、社会問題などだけでなくもっと身近な問題であっても、言葉自体の方が敏感に反応して変化している場合があるのだろうか。自分達自身にも気付かないくらいの震えみたいな意味を超えたモノを内在し伝播させているのかしら。言葉が先かそれとも我等が先か。
これは新しい事の様でもあり、昔からある詩的表現に近い領域なのだろうか。うん、巧く説明ができなかった。今はこれを繰り返すだけなのだろうか。
 今日は久しぶりに、ファミマで「さくさくパンダ」購入。相変わらず安くて、可愛くて、美味しい奴だ。世の中全てが、「さくさくパンダ」と壇れいになってしまえば良いのに。